2000年前のペルシャ銀器がなぜ広州に?古代グローバル都市の素顔 video poster
約2000年前のペルシャ風銀箱が、なぜ広州にたどり着いたのか。1980年代に発見された南越国・趙眜王の墓から見えてくるのは、古代広州がすでに世界とつながる「グローバル交易ハブ」だったという姿です。
1980年代、広州で見つかった「手つかずの王墓」
1980年代、広州(中国南部・広東省)で南越国の第2代統治者・趙眜(ちょうばつ)の墓が発見されました。墓は手つかずの状態で残され、当時の王が身につけ、使っていたとみられる副葬品がそのまま眠っていました。
そのなかから見つかったのが、ペルシャ風の文様で飾られた銀製の箱、アフリカ産の象牙、そして紅海沿岸からもたらされたとされる乳香(にゅうこう)です。これらの組み合わせ自体が、古代広州が遠く離れた地域とつながっていた証拠だと受け止められています。
ペルシャ風銀箱が示す「見えないルート」
ペルシャ風の銀箱が広州の王墓から見つかった、という事実はシンプルですが、その背後にはいくつもの物語が隠れていると考えられます。
- 銀箱のデザインは、ペルシャ世界で好まれた花のモチーフを取り入れたものとされています。
- 銀という素材は、当時の南越国の支配層にとって権威と富の象徴でした。
- ペルシャ風の意匠が王墓に収められたことは、異文化の品を取り入れる感性と、遠方とのつながりを誇示する意図があった可能性を示します。
この銀箱が、どのような経路を通って広州まで運ばれてきたのかは、はっきりとは分かりません。ただ、砂漠や海を越えた長距離の交易ネットワークのどこかで、人と人が手渡ししてきた結果であることは確かだといえるでしょう。
象牙と乳香が語る「広州の射程距離」
ペルシャ風の銀箱と並んで注目されるのが、アフリカの象牙と紅海の乳香です。東アフリカや紅海沿岸で産出する品が、南越国の都だった広州にまで届いていたことになります。
地図で見ると分かるように、これらは中国南部から見て、いずれもはるか遠くの地域です。それでも象牙や香料といった高価な品が王墓に収められていたという事実は、当時の広州がすでに「世界の端と端をつなぐ結節点」として機能していたことを物語ります。
2000年前の「グローバル・ショッパー」たち
趙眜の墓の発見は、歴史の見方も変えました。これまでは、東西の交流といえば、もっと後の時代から本格化したと考えられがちでした。しかし、この墓に眠る品々は、南越の人びとがすでに「古代のグローバル・ショッパー」だったことを示しています。
彼らは、近隣だけでなく、ペルシャやアフリカ、紅海沿岸など、さまざまな地域から届くモノを受け取り、それを王の権威や文化の一部として取り込んでいました。つまり古代広州は、単にものを売り買いする市場ではなく、東西の文明をつなぐハブだったといえます。
現代の広州と重なる「港町の記憶」
2025年のいま、広州の街を歩くと、高層ビルが立ち並び、世界中の企業や人が行き交う光景が広がっています。その姿は、古代の港町が果たしていた役割の延長線上にあるとも受け取れます。
趙眜王の墓から出土したペルシャ風の銀箱は、静かにそこに置かれているだけの小さな工芸品です。しかし、その背後には、砂漠や海を越える長い旅路と、見知らぬ文化同士が出会い、交じり合うプロセスが折り重なっています。
2000年以上前から続く「世界とのつながり」が、いまの広州のスカイラインと重なって見えてくる──そんな時間のスケールの大きさを感じさせる発見だといえるでしょう。
このストーリーから私たちが学べること
このニュースが示すのは、次のようなシンプルな事実かもしれません。
- グローバル化は「最近の現象」ではなく、少なくとも2000年以上前から続いている長い流れであること
- 一つの銀箱や一本の象牙といった「モノ」から、人、情報、文化がどのように行き交っていたかを読み解けること
- 都市のアイデンティティは、現在の経済規模だけでなく、長い歴史のなかで育まれた役割と記憶に支えられていること
ニュースとしての事実を追うだけでなく、こうした発見から、自分たちの都市や仕事、日常のグローバルなつながりをどう捉え直すかを考えてみるのもおもしろそうです。
Reference(s):
How Persian silverware ended up in Guangzhou 2,000 years ago
cgtn.com








