レバノン人陶芸家が語る「人の記憶を残す」景徳鎮セラミックの力 video poster
中国江西省景徳鎮市で制作に取り組むレバノンの陶芸家サマル・ムーガルベルさんは、セラミックを「人の記憶を長く保存するメディア」として捉えています。国際ニュースとしてのアートの動きと、人間の記憶をめぐる静かな問いが交差するトピックを、日本語ニュースとして分かりやすく整理します。
レバノン人陶芸家サマル・ムーガルベルさんとは
ムーガルベルさんはレバノン出身の陶芸家で、国際陶芸アカデミー(ユネスコの国際陶芸ネットワーク)のメンバーでもあります。今年、景徳鎮市でのレジデンス(滞在制作)に参加し、現地のセラミックを素材にした一連の作品を制作しました。
彼女がこだわるのは、焼成された土という、きわめてシンプルな素材です。一度かたち作られ、焼き上げられた土は、やがて持ち主がいなくなっても残り続け、人間の物語を運び続ける——ムーガルベルさんは、そうした陶芸の力に注目しています。
五感の限界と「時間・空間」を超える試み
ムーガルベルさんは、「私たちの五感は世界を感じ取る一方で、時間と空間に縛られている」と考えています。見えるのは「いま・ここ」の光景だけで、聞こえるのは届いた音だけ。触れられるのは手の届く範囲で、匂いや味も一瞬で消えていきます。
五感は「いま・ここ」しか扱えない
たとえば、子どものころに大切にしていたカップを思い出すとき、多くの場合、頭の中に浮かぶのは形や色の記憶です。実物が手元になければ、その重さや手触り、口当たりを正確にもう一度感じることはできません。五感は強力ですが、過去の体験をそのまま再生することはできないのです。
そこでムーガルベルさんが頼るのが、焼かれた土としてのセラミックです。五感の記憶が薄れても、物としての作品は残り続け、その存在自体が物語のきっかけになります。
焼かれた土がもつ「永続性」
粘土はそのままでは壊れやすく、時間とともに崩れていきます。しかし、高温で焼成されることで硬くなり、長い年月を生き延びることができます。古代の遺跡からも、紙や布より先に、陶器のかけらが見つかることが多いのは、その「しぶとさ」に理由があります。
ムーガルベルさんは、この焼成された粘土の性質に注目します。人の記憶が薄れていっても、器やオブジェ(立体作品)は残り続ける。彼女にとってセラミックは、時間と空間をまたいで、私たちのストーリーを運び続ける媒体なのです。
景徳鎮セラミックがひらく物語
景徳鎮市は、陶磁器の産地として知られる中国本土の都市です。ムーガルベルさんは、この地で作られるセラミックを用いて、一連の作品を生み出しました。レバノン出身のアーティストが景徳鎮の素材を用いること自体が、一つの国際的な物語をつくり出しています。
彼女の制作は、次のような問いを私たちに投げかけます。
- 一つの器の中に、作り手と土地の記憶はどのように重なるのか。
- 遠く離れた地域の素材と技術が、別の文化圏の物語をどう受け止めるのか。
- 「レバノン」と「景徳鎮」という異なる場所の時間が、一つの作品の中でどう共存しうるのか。
景徳鎮の土を使ったムーガルベルさんの作品は、単なるオブジェではなく、「土地」と「人」と「時間」が交差する記憶の器として位置づけられています。
セラミックは「人の記憶」をどう保存するのか
では、セラミックは具体的にどのように人の記憶を保存しうるのでしょうか。ムーガルベルさんの考え方を手がかりに、もう少し分解してみます。
- かたちに刻まれたストーリー
ろくろの跡や指のあと、表面のゆらぎは、作った人の身体の動きをそのまま写し取っています。それは、作り手の存在が「痕跡」として残ったものとも言えます。 - 触覚と重さが呼び戻す体験
手に取ったときの重さや、口にあてたときの感触は、単なるデザイン以上の「経験」を伴う記憶になります。同じ形の写真では、なかなか再現できない感覚です。 - 壊れても残る断片としての記憶
たとえ割れてしまっても、破片は破片として残り続けます。完全な姿ではなくても、「かつてここに器があった」という事実を伝え続ける点も、セラミックならではです。
こうした特徴が積み重なり、セラミックは、世代を越えて人のストーリーを運ぶ「静かなメディア」として機能していきます。
デジタル時代の「記憶の器」としての陶芸
2025年のいま、私たちの多くは、写真や動画、メッセージなど、ほとんどの記憶をデジタルで残しています。スクリーンを開けば、いつでも過去の画像や記録にアクセスできますが、同時に、データの量に圧倒され、本当に大事な記憶が埋もれてしまう感覚もあるのではないでしょうか。
ムーガルベルさんの取り組みは、デジタルな記録が悪いという話ではなく、「物としての記憶のあり方」を改めて浮かび上がらせます。手で触れられる器やオブジェは、クラウドには保存できませんが、そのぶん、限られた数だけが生活空間に置かれ、意識的に選び取られます。
画面の中で増え続けるデータとは対照的に、物としての記憶は「数を絞るからこそ、ひとつひとつの意味が濃くなる」という側面を持っています。
私たちの日常に引き寄せて考える視点
ムーガルベルさんの景徳鎮での制作は、国や地域を超えたアートの動きであると同時に、私たちの身近な暮らし方にも静かに問いを投げかけています。日常に引き寄せて考えると、次のような小さな実践が見えてきます。
- よく使う器にストーリーを持たせる
毎朝のマグカップや茶碗など、「よく使う一つ」を意識的に選び、その背景や出会いの記憶もセットで覚えておくことができます。 - 旅や出会いを「土の記憶」として残す
旅行先や誰かとの大切な時間を、写真だけでなく、器や小さなオブジェとして残してみる。手に取るたびに、そのときの空気が立ち上がってきます。 - 壊れた器もすぐに捨てない
欠けたり割れたりした器を、すぐに処分するのではなく「記憶のかけら」としてしばらく手元に置いてみる。ムーガルベルさんの視点に立てば、それもまた物語の一部です。
レバノンから景徳鎮へと渡った一人の陶芸家が示すのは、派手なメッセージではなく、静かな「記憶の保存法」です。五感の限界を自覚しつつ、それでも何かを残したいと願うとき、焼かれた土でできた小さな器やオブジェが、私たちの物語をそっと支えてくれるのかもしれません。
Reference(s):
Lebanese ceramicist: Ceramics are a way to keep human memory
cgtn.com








