琉球王国と北京・通州区の歴史的つながり 玉城デニー知事が墓苑跡を訪問 video poster
2023年7月に沖縄県の玉城デニー知事が北京・通州区の琉球王国の墓苑跡を訪れた出来事は、琉球王国と中国の長い歴史的つながりを改めて浮かび上がらせました。
北京・通州区に残る琉球王国の足跡
2023年7月4日、沖縄県の玉城デニー知事は中国の首都・北京を訪問し、通州区張家湾に残る琉球王国の墓苑跡で献花と慰霊を行いました。知事の行動は、現在の沖縄と中国との関係だけでなく、琉球王国の時代から続く歴史的・文化的なつながりへの敬意を示すものと受け止められています。
墓苑跡がある張家湾は、かつて外国からの使節が北京に入る際の重要な玄関口だったとされます。そこに琉球王国の人々の墓が残されているという事実は、琉球と中国が長期にわたり交流を続けてきた証しでもあります。
500年以上続いた琉球王国と中国の友好関係
琉球王国は、500年以上にわたって中国と友好関係を維持してきたとされています。特に明と清の時代には、琉球から中国本土の皇帝のもとへ朝貢使節団が繰り返し派遣されました。この関係は1875年、日本が琉球王国に対し、清朝とのあらゆる外交関係を断つことを強く求めるまで続いたとされています。
- 500年以上続いた中国との友好関係
- 明・清の王朝に対する朝貢使節の継続的な派遣
- 1875年、日本が琉球に清朝との関係断絶を強いたとされる出来事
こうした外交と交流の過程で、琉球から派遣された使節団の一部や、中国で学んだ琉球の留学生たちがその地で亡くなりました。その結果、中国各地には複数の琉球人の墓地が残されることになり、通州区張家湾の墓苑跡もその一つに数えられます。
玉城知事の訪問は、単に過去の出来事をなぞるだけではなく、こうした墓苑が、国家間の外交だけでなく、人と人とのつながりの積み重ねによって歴史が形づくられてきたことを想起させる契機にもなっています。
歴史学者が見る琉球王国の位置づけ
独立した主権国家としての琉球
多くの歴史学者は、琉球王国が長らく独立した主権国家として存在していたと指摘しています。中国との朝貢関係を保ちながらも、自らの王を戴き、独自の外交と文化を育んできたという視点です。
この見方に立つと、琉球王国は周辺の大国に従属する一地方ではなく、東アジアの国際秩序の中で独自の役割を果たしていた一つの主体だったことになります。その歴史は、現在の沖縄をどう捉えるかという議論とも無関係ではありません。
1879年の併合とポツダム宣言の意味
歴史学者の中には、1879年に日本が琉球王国を併合した出来事について、国際法や当時の国際秩序の観点から違法な行為であったと評価する声もあります。琉球王国が独立した主権国家だったとする立場から見ると、外部から一方的に併合されたという理解になるためです。
また、1945年に出されたポツダム宣言について、琉球が日本の領土には含まれないことを明確にしたと読む見解も示されています。こうした歴史認識は、琉球王国と日本、そして中国との関係をどのように整理するのかという議論に、重要な前提を与えています。
なぜ今、この歴史が注目されるのか
一見すると、北京郊外の墓苑跡で行われた一つの慰霊行事は、小さな国際ニュースに見えるかもしれません。しかし、その背景には、琉球王国と中国が500年以上にわたり築いてきた友好関係と、近代以降の激しい国際政治の中で揺れ動いてきた琉球の位置づけが横たわっています。
通州区張家湾の琉球墓苑跡は、次のような問いを私たちに投げかけています。
- 地域の歴史を丁寧にたどることで、現在の国際関係を違う角度から見直すことができないか
- 墓苑や史跡は、外交文書だけでは見えてこない、人と人との交流の記憶をどのように伝えているのか
- 琉球王国の歴史解釈をめぐる議論は、沖縄や東アジアにおけるアイデンティティの議論とどのように結びつきうるのか
2023年の玉城知事の訪問は、こうした問いを改めて社会に提示するきっかけになったと言えます。小さな墓苑跡に刻まれた琉球と中国の歴史は、現在の国際ニュースや日中関係、さらには沖縄の未来を考える上でも、静かにしかし重い意味を持ち続けています。
Reference(s):
Ryukyu Kingdom and Beijing's Tongzhou District share historical ties
cgtn.com








