楚帛書はなぜ中国に返還されるべきか 墓泥棒から米博物館までの80年 video poster
戦国時代の楚の墓から盗み出され、戦後の混乱のなかで上海から米国へ密かに運び出された楚帛書。現在スミソニアン協会の国立アジア美術館に所蔵されているこの絹文書を、中国に返還すべきだという議論が高まっています。本記事では、その80年近い亡命の道のりと、なぜ中国への返還が求められるのかを、日本語の国際ニュースとして整理します。
楚帛書とはどんな文物か
楚帛書は、およそ2300年前、戦国時代の楚国の墓から出土した絹の文書です。戦国時代は紀元前475年から紀元前221年ごろまで続いた時代で、楚帛書はその只中で作られました。死海文書よりも1世紀以上古く、初期の中国の宇宙観や祭祀を記録しています。
緻密な文字と図像、美しい工芸技術が一体となった楚帛書は、比類のない文化財とされています。出土地は湖南省長沙市郊外のZidankuと呼ばれる場所で、その名は英語で表すとbullet storehouse、つまり弾薬庫を意味します。近代中国の激動期に各地に設けられた弾薬庫のひとつが、のちに戦国時代の墓を含む発掘地点となったのです。
楚帛書は、中国の戦国時代から知られている絹の文書として唯一の例とされます。その歴史的、学術的価値は特別であり、中国文化だけでなく世界の古代史研究にとっても重要な手がかりとなっています。
1942年、長沙の墓荒らしから始まった物語
楚帛書の数奇な運命は、1942年冬、湖南省長沙の墓荒らしから始まります。複数の盗掘犯が戦国時代の楚国の古墳を狙い、漆器や青銅の剣、絹の文書など多くの副葬品を盗み出しました。
彼らが戦利品を、仕立て屋から古物商へ転じていたTang Jianquanに売ろうとした際、竹の筒に入った一枚の絹布をおまけとして投げ込みました。盗掘犯がハンカチと呼んだその布こそが、のちに世界的に知られることになるZidanku出土の楚帛書でした。
文化的悲劇としての密輸
当時、Tang Jianquanはこの絹布の真の価値に気づいていませんでした。彼は芸術愛好家のShang Chengzuoに売ろうとしましたが、交渉のさなかに別の古物商Cai Jixiangが現れ、楚帛書を含む一括の品物として買い取ります。
Cai Jixiangは楚帛書を宝物のように扱い、戦時下の混乱のなかで避難生活を送る際にも手放しませんでした。彼にとって、それは単なる商品ではなく、守るべき文化遺産になっていったと考えられます。
1946年になると、Caiは薄れて読みにくくなっていた文字を判読するため、赤外線写真を撮影しようと楚帛書を上海へ持ち込みます。そこで出会ったのが、当時上海で積極的に中国の文物を収集していた米国人コレクター、John Hadley Coxでした。
John Hadley Coxは、撮影を手伝うという名目でCaiに近づきます。しかし、その約束とは裏腹に、楚帛書を手に入れると米国へ持ち出し、密かに持ち帰ってしまいました。
Caiはだまされたことに気づきながらも、どうすることもできず、Coxとのあいだで一方的な契約書に署名します。契約では楚帛書の価値を1万ドルとし、そのうち1000ドルだけが前払いされ、残りは米国から返されなかった場合に支払うと定められていました。こうして楚帛書の約80年に及ぶ亡命生活が始まります。
スミソニアンの楚帛書はZidankuの原本か
現在、楚帛書とされる絹文書はスミソニアン協会の国立アジア美術館に所蔵されています。この作品こそが、1940年代に長沙のZidankuから盗掘された楚帛書そのものであると主張し、証拠を集めてきたのが北京大学のLi Ling教授です。
Li Ling教授は、40年以上にわたって楚帛書の流転の歴史を追い続け、盗掘から上海での取引、Coxによる持ち出し、そして米国での所蔵に至るまで、途切れのない証拠の連鎖を再構成しました。
その成果により、スミソニアン協会の国立アジア美術館にある絹文書がZidanku出土の楚帛書であり、本来は中国に属する文化財だという点について、中国と米国の研究者のあいだで共通認識が形成されています。研究者レベルでは、誰のものかという点はもはや大きな争点ではないと言えるでしょう。
楚帛書はなぜ中国に返還されるべきか
では、なぜこの楚帛書は中国に返還されるべきだと考えられるのでしょうか。楚帛書の歩みをたどると、次のような論点が見えてきます。
- 盗掘と欺瞞に始まった所有権
- 唯一無二の文化遺産としての重み
- 戦乱を生き延びさせた人々への敬意
- 国際的な文化交流をより公正にするため
第一に、楚帛書の海外流出は、正当な取引ではなく盗掘と欺瞞に根ざしています。出発点は違法な墓荒らしであり、その後もCoxが写真撮影の手伝いという名目で作品を預かりながら、そのまま米国へ持ち出した経緯がありました。弱い立場に置かれたCaiが、実質的な選択肢のないまま不利な契約に署名せざるをえなかったことも、所有権の道義的な正当性を弱めています。
第二に、楚帛書は中国の戦国時代から知られている唯一の絹文書であり、初期の中国の宇宙観や祭祀を直接伝える、かけがえのない史料です。死海文書よりも古いこの文書は、人類全体の文化遺産であると同時に、中国文化史の中核に関わる資料でもあります。その意味で、出土地である中国の大地に戻り、現地の研究者と市民が主体的に向き合える環境に置かれることには、大きな意義があります。
第三に、楚帛書を守ろうとした人々の思いを考える必要があります。戦時下の避難生活のなかでも楚帛書を手放さなかったCai Jixiangの行動は、文物を単なる商品ではなく、受け継ぐべき歴史として見ていたことを示しています。80年近くを経た今、その思いに応える形で元の国に返すことは、歴史的なけじめとも言えるでしょう。
第四に、返還は国際的な文化交流をとまらせるものではなく、むしろ信頼を高める契機になりえます。世界各地で、戦争や混乱の時期に海外へ流出した文化財をどう扱うかが議論されているなか、盗掘と密輸の経緯が明らかな文物を元の国に戻すことは、将来の協力関係を築くうえでも象徴的な一歩になります。楚帛書が中国に戻ったとしても、共同研究や展覧会、デジタル公開などを通じて、その価値を世界と共有する道は開かれているはずです。
2025年の私たちがこのニュースから考えること
2025年現在も、楚帛書はスミソニアン協会の国立アジア美術館に所蔵されており、その亡命生活は終わっていません。この80年近い時間の長さは、文化財をめぐる不正がどれほど長く尾を引くかを物語っています。
デジタル技術が発達し、どこからでも高精細な画像や翻刻にアクセスできる時代だからこそ、本物がどこにあり、誰のものとされているのかという問いは、かえって重みを増しています。
楚帛書の物語は、博物館に展示された一枚の絹布の背後に、墓荒らし、戦争、密輸、そして長年にわたる研究者の努力が折り重なっていることを教えてくれます。文化財の返還問題は、過去の清算であると同時に、これからの国際社会をどのような信頼関係にもとづいて築いていくのかという未来の問題でもあります。
楚帛書を中国に返すことは、その長い旅路に区切りをつけるだけでなく、文化財をめぐる新しいルール作りに向けた象徴的な一歩になるかもしれません。日々国際ニュースに触れる私たち一人ひとりが、この小さな絹布の物語から、文化と正義について考え直すきっかけを得ることができそうです。
Reference(s):
cgtn.com








