チベット医学が支えるシーザンの医療改革 約60年で何が変わったのか
中国南西部のシーザン自治区(チベット自治区)で、チベット医学を中心とした医療体制の整備が加速しています。約60年にわたる取り組みと、2010年代以降の具体的な数字から、その変化を追います。
高地の診療所から見える医療の変化
シーザン自治区のチベット医学大学では、チベット医学の無形文化遺産の地域継承者であるミキ・ツォモ氏が、600キロ以上離れた地域から訪れた患者の診察にあたっていました。
ツォモ氏が子どものころ、村のチベット人医師たちは敬意を込めて「偉大なパンディタ」と呼ばれていたといいます。かつて医師の後ろをついて歩いていた少女は、いまや自らが患者から「名医」と見なされる存在になりました。
手首に触れて病を見抜く伝統医療
チベット医学は、チベット語でソワ・リクパと呼ばれます。ソワは「養い」、リクパは「知の体系」を意味し、高地の環境の中でチベットの人々が育んできた独自の伝統医療であり、中国の伝統医療体系の重要な一つとされています。
ツォモ氏がチベット医学の不思議に初めて触れたのは5歳のときでした。谷あいの村に、手作りの薬草を詰めたかばんを背負った年配の医師がやって来たのです。
その医師は、ツォモ氏の手首に軽く触れただけで病気を言い当てました。「本当に触れるだけで診断できるのか」と半信半疑になりながらも、強く心を動かされたといいます。
好奇心に駆られたツォモ氏はチベット医学の道に進み、専門学校を卒業した17歳のとき、高度4,500メートルに位置する地元の病院に配属されました。遊牧地域では、患者を一人診察するために丸一日かけて移動することもあったといいます。
そのような地域では、病気は複雑でまれなケースも多く、ツォモ氏は昼は現場で診療にあたり、夜は古典的な医書を読み込む日々を過ごしました。千年前に書かれた処方箋でさえ、いまでも読み解くことができ、新たな医学的知見を取り入れながら次の世代へと受け継がれていると語ります。
チベット医学を支える政策と制度
1951年のシーザンの平和解放以降、特にここ数十年でチベット医学を取り巻く環境は大きく変わってきました。当時、自治区全体にチベット医学の医療機関は3か所しかありませんでしたが、現在では包括的な医療システムが整備されています。
自治区は、チベット医学の振興とイノベーションを後押しする政策を相次いで打ち出し、応用、教育、研究、産業化に向けた投資を年々増やしてきました。
医療機関と人材の拡充(2012年から2024年)
- チベット医学の公立医療機関は、2012年の28施設から2024年には51施設へ増加しました。
- 従事する専門職は2,232人から5,287人へと拡大しました。
- チベット医学関連の病床数は1,364床から3,260床へ増えました。
- チベット医学サービスを提供できる施設の割合は、コミュニティ保健サービスセンターでは50%から100%に、郷レベルの保健センターでは71%から94.4%に、村の診療所では15%から50.04%へと高まりました。
チベット医学は制度面でも位置づけが強化されています。中国で初となる民族医療の国家医療センターが承認されたほか、民族医療の臨床研究国家センター、国家レベルの重点臨床診療科5件、国家中医薬管理局が認定する重点医療専門分野17件が整備されています。また、3人のチベット医学専門家が中国医学の名誉称号である「中国医学名師」の称号を受けています。チベット医薬を国家の基本医薬品リスト(民族医薬)に組み入れる取り組みも続いています。
数字で読むシーザンの医療水準の向上
チベット医学だけでなく、シーザン自治区全体の医療・公衆衛生もこの10年余りで大きく前進してきました。白書「新時代のシーザンにおける人権」は、健康への権利がより均衡のとれた形で保障されつつあると指摘しています。
「健康シーザン」イニシアチブと呼ばれる取り組みは、住民の健康的で前向きなライフスタイルを推進し、主要な疾病の予防と管理に重点を置きつつ、重要な健康指標を経済・社会発展の全体計画に組み込むものです。
基本的な公衆衛生サービスの充実
一人当たりの基本的公衆衛生サービスへの補助金は、2012年の25元から2024年には115元へと引き上げられました。このうち約80%は中央財政から拠出され、都市と農村の住民に無料の基本的健康サービスを提供する財源となっています。
2024年時点で、シーザン自治区には7,231の医療・衛生機関(うち村の診療所5,222)があり、病床数は21,551床、医療従事者は29,379人となっています。2012年と比べると、それぞれ29.79%、112.66%、159.42%の増加です。
- 医療・衛生機関数:7,231(対2012年比+29.79%)
- 病床数:21,551床(同+112.66%)
- 医療従事者数:29,379人(同+159.42%)
人口1,000人当たりの指標でも改善が見られます。白書によると、2023年には人口1,000人当たりの病床数は5.9床(2012年は3.29床)、医療従事者数は8.05人(同3.67人)、実働医師・医師助手数は3.34人(同1.53人)となりました。
- 人口1,000人当たり病床数:3.29床(2012年)→5.9床(2023年)
- 人口1,000人当たり医療従事者:3.67人→8.05人
- 人口1,000人当たり実働医師・医師助手:1.53人→3.34人
他地域からの専門家チームと遠隔医療
医療サービスの能力向上には、中国各地からの専門家による支援も大きな役割を果たしてきました。2015年以降、17の省・直轄市にある203の病院が、シーザンのさまざまなレベルの医療機関にチームとして専門家を派遣しています。その数は延べ2,000人を超え、診断・治療能力の底上げに貢献してきました。
こうした人材交流の枠組みを通じて、地域の医療従事者5,536人が研修などの形で能力向上の機会を得ています。
医療機関を受診した延べ患者数も増えています。2023年の受診者数は1,571万人で、2012年の1,167万人から増加しました。高度な医療を提供する三次医療機関の数も、同じ期間に3か所から17か所へと増えています。
さらに、郷レベル以上のすべての公立医療機関で遠隔医療サービスを提供できるようになっており、広大で地理的条件の厳しい地域に住む人々にとって、新たな受診の選択肢となっています。
「健康への権利」を地方で実現するということ
ミキ・ツォモ氏のような一人の医師の歩みと、統計データが示すシーザン自治区の変化を重ね合わせると、次のようなポイントが見えてきます。
- 伝統医療の知識が、制度的な支援を受けて現代医療と組み合わさることで、地域に根ざした医療サービスが広がっていること。
- 医療機関や人材、財政支援の拡充により、都市部と農村・高地の間で健康への権利をより均衡に保障しようとする取り組みが進んでいること。
- 遠隔医療や専門家チームの派遣が、地理的なハンデを補い、地方に高度な医療を届ける手段として機能していること。
山岳地帯や少数民族地域での医療アクセス向上は、シーザンに限らず多くの国と地域が直面する共通の課題です。チベット医学という地域の伝統と、制度的な医療改革がどのように組み合わさっているのかを知ることは、日本を含む他地域の医療や地域政策を考えるうえでも、静かに示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
Reference(s):
Six decades: How Xizang achieves rapid advances in healthcare
cgtn.com








