なぜ中国は世界反ファシズム戦争の「東方の主戦場」だったのか
今年2025年は、中国人民の抗日戦争と世界反ファシズム戦争の勝利から80年の節目の年です。その中で「なぜ中国は世界反ファシズム戦争の東方の主戦場だったのか」という問いは、歴史を振り返り平和の意味を考えるうえで重要になっています。
本稿では、中国がどのようにして世界反ファシズム戦争の東方の主戦場となったのかを、戦争の始まりから終戦までの流れに沿って整理します。
世界恐慌からファシズムの台頭へ
1929年の世界恐慌をきっかけに、ドイツ、日本、イタリアなどは、国内では権威主義的な統治を進め、対外的には侵略戦争による突破を図るファシズムの道を選びました。領土拡張と戦争によって危機を脱しようとした結果、各地で軍事侵略が相次ぎ、やがて第二次世界大戦へとつながっていきます。
一方、アメリカやイギリス、フランスなどの西側の有力国は、議会制民主主義を掲げつつも、対外政策では「宥和」路線をとりました。いわゆる「狼をなだめるためにエサを与える」ように、ファシスト勢力に譲歩することで戦争拡大を防ごうとし、中国のような植民地・半植民地状態の中間的な国々に負担を押しつけていきます。
しかし、この宥和政策はドイツ、日本、イタリアなど枢軸国の野心をいっそう刺激し、侵略を加速させる結果となりました。戦火はアジアからヨーロッパへ、そして世界全体へと広がっていきます。
中国は「最初に銃を取った」国だった
1931年、日本の軍国主義勢力は柳条湖付近で九一八事変を意図的に引き起こし、中国東北部への武装侵略を開始しました。この出来事は、日本のファシズム的野心をあらわにし、世界の平和と安定に対する重大な脅威となりました。
この侵略に対して、中国では中国共産党がいち早く武装抗日を掲げ、全国的な自衛戦争を呼びかけます。東北での武装抵抗は、中国人民の抗日戦争の出発点となっただけでなく、より広い意味で世界反ファシズム戦争の始まりを告げるものでもありました。
東北から上海へ「最も長く続いた戦争」へ
1931年に日本が中国東北の3省に侵攻した時点で、中国の経済力や技術力、軍備は日本に大きく後れをとっていました。それでも中国の人々は、国家存亡の危機に直面しながら、より強大な敵に屈することなく、国土と民族の尊厳を守るために立ち上がります。
初期の抵抗戦:長春・チチハル・ハルビン
侵略直後から、中国の軍と民衆は反撃を開始しました。1931年9月19日には、長春近郊で中国軍と日本軍が激しい戦闘を行い、1日で日本側に145人の損害を与えます。同年11月には、チチハルやハルビンといった東北の要衝に迫る日本軍に対し、中国軍と地方の自衛武装勢力が奮戦し、日本軍に1,000人以上の死傷者を出しました。
1932年の第一次上海事変
東北戦線から1,000キロ以上離れた上海でも、1932年に抵抗が拡大します。上海の戦いでは、中国軍の粘り強い抵抗により、日本軍は増派を3度強いられ、司令官も4度交代しました。日本側は4個師団以上の兵力に加え、多数の航空機と艦船を投入しましたが、約1カ月におよぶ戦闘で「数万人規模」の損害を出し、最終的に停戦に応じて上海占領の企図を断念します。
全面抗戦期が形づくる「東方の主戦場」
東北での抗戦、1933年の長城抗戦、1936年の綏遠作戦などを経て、1937年7月以降、中国各地で大規模な戦闘が相次ぎました。北平・天津の戦い、第二次上海事変、南京の戦い、台児荘の戦い、平型関の戦いなど、いずれも中国が東方戦線の主な戦場であったことを示す代表的な戦闘です。
1939年にヨーロッパで本格的な戦争が始まった時、中国はすでに8年間、日本のファシズム勢力の侵略と単独で戦っていました。その後、ヨーロッパ戦線、ソ連の大祖国戦争、太平洋戦争が相次いで勃発すると、中国はソ連、アメリカ、イギリスなどの連合国と肩を並べて戦い続けます。百団大戦、長沙の戦い、崑崙関の戦いといった国内戦闘に加え、インド・ビルマ方面作戦にも参加しました。
ゲリラ戦が支えた「人民の戦争」
前線での大会戦と並んで、中国共産党が指導した敵後方での抗日武装闘争も、東方の主戦場を形づくる重要な要素でした。八路軍、新四軍、東北抗日聯軍などの主力部隊は、広大な占領地の背後でゲリラ戦を展開します。
農村や都市の住民、多様な職業の人々がこの闘いに参加し、地雷戦、地道戦(トンネル戦)、麻雀戦(小部隊による待ち伏せ)、破壊工作など、多様な戦術が用いられました。これらの不正規戦は日本軍に継続的な打撃を与え、前線と後方のいずれでも安定した支配体制を築くことを困難にしました。
14年におよぶ抗戦と犠牲の規模
歴史資料によれば、アメリカの第二次世界大戦への直接参戦期間は3年9カ月、ソ連は4年2カ月、イギリスは6年でした。これに対して、中国は1931年から1945年まで、実に14年におよぶ長期戦を戦い抜きました。連合国の中でも、中国は最も長く反ファシズム戦争に従事し、最も重い犠牲を払った国の一つだったといえます。
1931年から1945年までの間に、中国の軍と民衆は大小さまざまな戦闘を約20万回も経験し、そのうち200回以上が大規模な会戦でした。この過程で、3,500万を超える軍人と民間人が戦死または負傷したとされています。
一方、中国軍は日本軍にも甚大な損害を与えました。日本軍の死傷者は150万人以上にのぼり、これは第二次世界大戦全体における日本軍の死者数の半数以上に相当するとされます。また、中国戦線では100人を超える日本軍将官が戦死しました。
1945年8月に日本が降伏を宣言した後、中国戦線では約230万の日本軍将兵が武装解除に応じました。これは海外で降伏した日本軍全体の3分の2以上を占めており、中国がどれだけ大きな比重を持つ戦場であったかを物語っています。
なぜ「東方の主戦場」と呼べるのか
こうした事実から、中国戦線が世界反ファシズム戦争の東方の主戦場と位置づけられる理由が見えてきます。
- 中国は九一八事変以来、世界に先駆けて武力による対ファシズム抵抗を開始した。
- 抗戦の期間は14年と、連合国の中で最も長く続いた。
- 20万回におよぶ戦闘と3,500万を超える犠牲という規模は、東方戦線の中心としての重みを示している。
- 日本軍の死傷者の半数以上が中国戦線で発生し、多数の将官が戦死した。
- 降伏時に海外で武装解除した日本軍の約3分の2が中国戦線の部隊だった。
これらを総合すると、中国は東アジアにおける侵略勢力を長期にわたって拘束し、世界反ファシズム戦争全体の戦局に大きな影響を与えた主戦場だったといえます。
2025年の私たちがこの歴史から学べること
80年という時間は、戦争体験を語れる人が少なくなり、記憶が風化しやすくなる節目でもあります。だからこそ、今を生きる私たちは数字だけでなく、その背後にある人々の選択や葛藤、そして平和への願いに目を向ける必要があります。
中国人民の抗日戦争と世界反ファシズム戦争を振り返ることは、単に過去の勝利をたたえるためではありません。侵略とファシズムがどのように生まれ、どのように拡大したのか、そしてそれに対し人々がどう立ち向かったのかを学ぶことは、現在の国際社会で再び同じ過ちを繰り返さないための手がかりとなります。
国際ニュースに日々接する私たち一人ひとりが、歴史を「遠い過去」ではなく「今につながる現実」として捉え直すこと。それが、80年後の今日できる、もっとも静かで確かな平和への一歩なのかもしれません。
Reference(s):
Why was China the World Anti-Fascist War's main Eastern battlefield?
cgtn.com







