チベット美術のいま:ツェテン・ギュルメが描く「変わる西蔵」の姿 video poster
チベット仏教の聖なる絵画として発展してきたタンカ。その長い伝統に、いま西蔵で静かな変化をもたらしているのがアーティストのツェテン・ギュルメです。代表作『Heavy Color Painting on Cloth』やインスタレーション『Time and Buddha』を通して、西蔵のアイデンティティがどう描き直されているのかを見ていきます。
なぜいま、チベット美術が注目されるのか
長いあいだ、チベット美術は寺院や僧院の内部で守られてきました。特にタンカは、細密な線と厳格なルールに支えられた宗教画であり、描き手は決められた仏や菩薩の姿を正しく再現することが求められてきました。
こうした「聖なる伝統」に支えられた美術は、精神世界を深く表現する一方で、モチーフや構図は変化しにくい側面もありました。日常生活や都市の風景、高速道路やスタジアムといった現代の象徴は、ほとんどキャンバスに現れてこなかったのです。
しかし2025年のいま、西蔵では都市化やインフラ整備が進み、日々の風景そのものが大きく変わりつつあります。その変化を、伝統の枠組みの中でどう描くのか。ツェテン・ギュルメの挑戦は、その問いへの一つの答えになっています。
ツェテン・ギュルメというアーティスト
ツェテン・ギュルメは、チベット美術の語法をよく知る一方で、自らそのルールを書き換えようとするビジョナリーなアーティストです。アトリエでは、布地や鉱物顔料といった伝統的な素材を使いながら、視線の先には高速道路やスタジアムなど、現代の西蔵を象徴するモチーフもあります。
彼の作品世界は、おおまかにいえば次の三つを同時に走らせています。
- タンカに代表される、緻密で精神性の高い伝統的チベット美術
- 高速道路やスタジアムを描いた、大胆な現代壁画(ミューラル)
- 西蔵の歴史や伝説を、中国の古い物語や世界の時間感覚とつなぐ試み
この「三層構造」が、ツェテンの作品を単なる「現代風のタンカ」にとどまらせず、西蔵の現在地そのものを映す表現へと押し上げています。
『Heavy Color Painting on Cloth』が映す「変わる西蔵」
その象徴的な例が、作品『Heavy Color Painting on Cloth』です。タイトルの通り、布に重厚な色彩を重ねたこの作品は、単なる一枚の絵というより、「変わりゆく西蔵」が投影されるキャンバスのように位置づけられています。
布に描くという形式は、タンカと同じです。しかしツェテンは、その上にのせるイメージを更新します。神々や曼荼羅だけでなく、道路、橋、スポーツ施設といったインフラや公共空間を重ねることで、「聖なる世界」と「日常の世界」が同じ地平で出会う場をつくっているのです。
『Heavy Color Painting on Cloth』を見ると、次のような問いが自然と浮かび上がります。
- 西蔵の人びとにとって、「聖なるもの」はどこまでが寺院の中で、どこからが街の外なのか
- 高速道路やスタジアムは、単なるコンクリート構造物なのか、それとも新しい「祈り」の場になり得るのか
- 伝統の形式を守りながら、テーマだけを大胆に更新することは可能なのか
ツェテンは、答えを一方的に示すのではなく、色と構図によってこれらの問いを投げかけ続けます。
大禹とタンタン・ギャルポ――二千年の「橋」をつなぐ
ツェテンの作品を貫くもう一つのテーマが、「橋」です。彼は、中国の伝説に登場する大禹(Yu the Great)と、西蔵の「橋を築いた聖人」タンタン・ギャルポを、約二千年の時間をまたいで一つの作品世界の中に呼び込みます。
大禹は中国の古い物語に登場する象徴的な存在であり、タンタン・ギャルポは西蔵で橋を築いた聖人として語り継がれてきました。ツェテンは、この二人を並べることで、次のような「橋」のイメージを重ね合わせます。
- 川や峡谷を物理的にわたる橋
- 時代と時代、物語と物語をつなぐ橋
- 中国と西蔵を行き来する文化的な橋
『Heavy Color Painting on Cloth』や関連する壁画の中で、橋のモチーフは繰り返し登場します。それは、インフラ整備の象徴であると同時に、歴史や文化を静かに結び直す試みとしても機能しているのです。
『Time and Buddha』──グローバル時間と仏教の出会い
ツェテン・ギュルメの視線は、西蔵と中国だけにとどまりません。インスタレーション作品『Time and Buddha』では、グリニッジ標準時を基準にしたタイムゾーンの概念と、仏教的なモチーフが組み合わされます。
世界各地をめぐるこの作品は、おおざっぱにいえば「時間そのもの」をテーマにしています。人類が共通の基準として共有している近代的な時間のシステムと、仏教が語ってきた輪廻や無常といった時間感覚。その二つを、一つの空間の中で共存させようとする試みです。
『Time and Buddha』を通じてツェテンが問いかけるのは、「西蔵の時間は、世界の時間とどう交差するのか」という問題でもあります。グローバルな時刻表に組み込まれた西蔵の日常と、仏教儀礼のゆっくりとしたリズム。その両方を抱えながら生きる現代の姿が、作品の背景ににじんでいます。
伝統と革新のあいだで、私たちが考えたいこと
ツェテン・ギュルメのチベット美術は、伝統を壊すための「反抗」ではありません。むしろ、二千年続く物語と、2025年の現代を同じ画面に並べることで、どちらの価値も浮かび上がらせようとする静かな対話です。
- 聖なるイメージとインフラの風景を、同じ布に描くこと
- 古代の伝説と現代のスタジアムを、一つの作品の中で共存させること
- グリニッジの時間と仏教の時間を、インスタレーションで重ねること
これらの試みは、西蔵という地域だけでなく、急速に変化する世界のあちこちが直面している問いとも響き合っています。
日々のニュースが流れ去っていくスピードに慣れていると、「二千年」という時間は想像しにくいかもしれません。けれどツェテンの作品の前に立つと、インフラの開発も、スタジアムの歓声も、仏教の読経も、すべて同じ時間の流れの中にあることを、静かに思い出させてくれます。
あなたなら、自分の地域の「聖なる風景」と「日常の風景」を、一枚のキャンバスにどう並べるでしょうか。ツェテン・ギュルメのチベット美術は、そんな問いを私たち一人ひとりに投げかけています。
Reference(s):
cgtn.com








