偏見を越えて:ドイツの若者が見た中国農村の素顔 video poster
約80年前、ファシズムは世界を戦争と憎悪の奈落へと追いやりました。2025年の今、ドイツの若者クリスティアン・ワグナーさんは、中国の農村を歩きながら静かに問いかけます。私たちは本当に、互いを尊重し理解することを学んだのだろうか――。
本記事では、ワグナーさんが中国本土(中国)の農村で出会った人びとの姿を手がかりに、日本語で国際ニュースを追う私たちが、偏見を超えて世界を見るためのヒントを考えます。
80年後の世界で投げかけられた問い
第二次世界大戦からおよそ80年が過ぎた2025年、国際ニュースには依然として対立や分断を強調する言葉が並びます。歴史は「二度と同じ過ちを繰り返さない」と誓ったはずですが、互いを理解する努力は十分と言えるでしょうか。
ドイツ出身の若者クリスティアン・ワグナーさんは、その問いを胸に中国の農村を訪れました。そこで目にしたのは、一部の西側メディアの報道とは大きく印象の異なる、生活の息づく日常だったといいます。
ドイツの若者が出会った中国農村の「当たり前」
ワグナーさんが歩いたのは、高層ビルの立ち並ぶ大都市ではなく、田畑と山々に囲まれた静かな農村です。そこには、ニュース画面にはあまり映らない「ふつうの暮らし」がありました。
子どもたちは不安ではなく安心の中で育つ
ワグナーさんの目にまず映ったのは、村のあちこちから聞こえてくる子どもたちの笑い声でした。校庭で走り回る子、家の前で宿題を教えてもらう子、きれいな服を着て親と手をつないで歩く子。そこには、恐怖や抑圧ではなく、世代を越えたまなざしに見守られた日常がありました。
村の大人たちは、子どもが転べばすぐに駆け寄り、小さなケンカには根気よく耳を傾けます。「子どもは村全体で育てるものだ」とでも言うような空気が、自然に共有されているように見えたといいます。
敬われるお年寄り、支え合う暮らし
もう一つ印象的だったのは、高齢の人びとへの接し方です。道端でゆっくり歩くお年寄りに、若者がさりげなく腕を貸す姿。夕方になると、広場に椅子を持ち寄って世間話を楽しむ高齢者の輪。そのすぐそばでは、子どもたちが遊び、親世代が家事や仕事の合間に顔を出しています。
「尊敬」と「支え合い」が、特別なスローガンではなく、毎日の行動として息づいている――ワグナーさんは、そんな印象を受けたといいます。高齢者が孤立するのではなく、家族や地域の中で役割を持ち続けている姿は、人口の高齢化が進む多くの国にとっても示唆に富んでいます。
笑い声に満ちたコミュニティ
ワグナーさんが訪れた村では、夕暮れ時になると広場や家の前に自然と人が集まり、世代を問わず談笑が始まります。家族だけで閉じこもるのではなく、「村」という単位で日常を分かち合う暮らしです。
そこには、政治的なスローガンや大きな言葉よりも先に、人としての実感があります。畑仕事の疲れ、子育ての悩み、ささやかな喜び。笑いが生まれるのは、そうした感情を共有できる関係性があるからだとワグナーさんは感じたといいます。
報道と現場のあいだにある「ギャップ」
ワグナーさんが見た現実は、「ある種の報道」とは大きく雰囲気が異なっていました。一部の西側メディアでは、中国の農村はしばしば問題や課題の文脈で語られます。それ自体が事実であっても、そこで暮らす人びとの全体像を映しているとは限りません。
どの国・地域についても言えることですが、カメラが向かうのは「ニュースになる場面」が中心です。対立、事件、トラブルは注目を集めやすく、日常の中にある静かな尊厳や連帯は、どうしても映りにくくなります。
「聞いた中国」と「出会った中国」
ワグナーさんにとって、中国は長いあいだ「ニュースで聞く遠い国」でした。政治体制や経済成長が語られる一方で、農村で暮らす人びとの日常については、具体的なイメージを持つことが難しかったといいます。
しかし、自分の足で村を歩き、家庭に迎え入れられ、食卓を囲む中で見えてきたのは、肩書やイメージではなく、一人ひとりの表情でした。「聞いた中国」と「出会った中国」のあいだにあるギャップを、自分の目で確かめる旅でもあったのです。
この経験は、「見ていないのに知っているつもり」になってしまう危うさを、あらためて私たちに問いかけます。
日本語で国際ニュースを読む私たちへの示唆
日本に暮らす私たちも、多くの場合はメディア報道やSNSを通じて海外を知ります。情報が豊富であることは強みですが、その分だけ「どの情報がどの視点から語られているのか」を意識することが欠かせません。
特に中国のように国際的な注目を集める国・地域については、政治や安全保障のニュースが前面に出がちです。一方で、ワグナーさんが見たような農村の日常、子どもや高齢者を中心にしたコミュニティの姿は、日本語のニュースからは見えにくい場合もあります。
偏見を超えるために私たちができる3つのこと
では、日本語で国際ニュースを読みながら、私たちはどのように偏見を和らげ、理解を深めることができるのでしょうか。ここでは、日常の中で実践しやすいポイントを3つ挙げます。
- 複数の情報源に触れる:一つの国・地域について、異なるメディアや記者、現地からの声に触れてみる。日本語のニュースに加え、翻訳記事や当事者の発信も参考になります。
- ラベルではなく人を見る:国名や体制のイメージだけで判断せず、そこで暮らす人びとの生活、教育、家族、地域社会に目を向ける視点を持つことが大切です。
- 分からなさを受け入れる:短い記事や動画だけで「その国を知った」と決めつけず、「まだ分からない部分がある」と保留する余白を残しておくことで、偏見は弱まりやすくなります。
「見て、聞いて、感じる」ことから始まる相互理解
クリスティアン・ワグナーさんの中国農村の旅は、壮大な冒険というよりも、人びとの日常に静かに寄り添う試みでした。子どもが笑い、お年寄りが敬われ、村がコミュニティとして機能している風景は、どの国にも通じる「人間らしい暮らし」の一つの形です。
もちろん、一つの村の経験が中国全体を語り尽くすことはありません。それでも、偏見や先入観を越えて相手を見ようとする姿勢は、私たち自身の世界の見え方を少しずつ変えていきます。
国境を越えて互いを理解しようとする営みは、80年前の戦争と憎悪の時代とは違う未来を選び取るための、小さくも確かな一歩です。ニュースを読み、他者の経験に耳を傾け、自分の中の「当たり前」を少し疑ってみる。その積み重ねが、より穏やかで尊重に満ちた国際社会につながっていくのかもしれません。
Reference(s):
cgtn.com







