80年目に読む中国戦線 1937~1945年のタイムライン解説
2025年は、中国人民の抗日戦争と世界反ファシズム戦争の勝利から80年という節目の年です。本記事では、中国戦線(China Theater of War)1937~1945年の主な出来事を、日本語でコンパクトに振り返ります。
断片的に聞いたことのある地名や戦いを、時間の流れに沿って整理することで、アジア・太平洋戦争の全体像や、中国が「東方の主戦場」となった意味が見えてきます。
全民族抗戦の始まり:1937年、中国戦線が「東方の主戦場」に
1937年7月7日のいわゆる「七七事変」は、中国全土での抗日戦争の始まりとなりました。この事件をきっかけに、中国は世界反ファシズム戦争における東方の主戦場となります。
翌8日、中国共産党(CPC)は声明を発表し、全国の各党派と各軍隊に対し、団結して日本の侵略に立ち向かうよう呼びかけました。7月15日には、中国共産党中央委員会が国民党との協力を宣言し、抗日民族統一戦線が正式に確立されます。
7月末には北平と天津が陥落し、中国戦線は本格的な総力戦の段階に入っていきました。
大規模会戦とソ連の支援:上海から太原へ
1937年8月から11月にかけて行われた淞滬会戦では、約70万の中国軍が3か月にわたり奮戦し、日本側の「3か月で中国を征服する」という目論見を挫きました。同時期、洛川会議では「全面抗戦」と「敵後方に根拠地を築く」という方針が打ち出されます。
9月25日の平型関戦役では、八路軍が全国的抗戦開始後の最初の大きな勝利を収めました。さらに、忻口・娘子関など山西省一帯での激戦を経て、太原会戦は国民党軍と共産党軍の協同作戦の代表例となりました。
同じ1937年8月には、中ソ不可侵条約が締結され、ソ連は中国に対して借款や軍需物資、義勇航空隊による支援を開始します。1937年から1941年にかけて、ソ連は「西北国際回廊」を通じて新疆経由で物資を送り、義勇飛行隊は華北・華東・華中の空戦にも直接参加しました。
南京の惨劇と長期戦への転換:1937~1938年
1937年12月13日から翌年1月にかけて、日本軍は南京で約6週間にわたり30万人以上の中国人を殺害しました。南京大虐殺は、第二次世界大戦全体の中でも最悪級の戦争犯罪の一つとされています。
一方で中国側は、前線・敵後方の双方で抵抗を続けました。1938年1月には八路軍第129師団の東進縦隊が冀南抗日根拠地を設立します。3月から4月の台児荘戦役では1万以上の日本軍を撃破し、正面戦場における中国側の大きな勝利となりました。
その後も徐州会戦、武漢会戦など大規模会戦が続きました。武漢会戦(1938年6~10月)は、投入兵力が最も多く、戦闘期間も最長の戦いでした。江西省万家嶺では、第九戦区の中国軍が1938年10月9日前後の戦いで3千人以上の日本軍を撃退しています。
この時期、中国はソ連の支援を受けて初の機甲部隊である国民革命軍第200師を編成し、長期にわたる持久戦体制を固めていきました。「持久戦」の理論を示した論文も1938年5~6月に発表され、戦争の性格を科学的に分析した戦略として位置づけられました。
長沙三度の攻防と百団大戦:消耗戦の時代へ
1939年9月から1942年1月にかけて、湖南省の長沙では3度にわたり大規模な戦いが繰り広げられました。これらの戦闘で日本軍は大きな損害を受け、とくに第3次長沙会戦では約5万6千人が戦死したとされ、中国側に「必ず勝てる」という確信を与えました。
同じ時期、中国南部では広西省の崑崙関をめぐる戦い(1939年12月18日~1940年1月11日)で中国軍が要地を奪回し、日本軍指揮官・中村正雄少将を戦死させています。湖北省の棗陽・宜昌周辺でも1940年5月に激戦が続きました。
共産党系部隊も各地で行動を強めます。1940年8月から1941年1月にかけての百団大戦では、100以上の八路軍の連隊が日本側の拠点や鉄道を一斉に攻撃し、2万人以上の敵兵を撃破しました。1941年2月には新四軍が江蘇省清陽鎮で傀儡軍1個連隊を殲滅しています。
空からの国際支援:フライング・タイガースと抗日ゲリラ
1941年8月、アメリカ人志願兵で編成された義勇空軍「フライング・タイガース」が結成され、クレア・シェンノート大尉の指揮のもと、中国空軍を支援しました。同月、華北の邢台・沙河・永年一帯では第129師団が1300人以上の日本軍に勝利しています。
11月には日本軍の大規模な「掃討作戦」に対し、八路軍第115師団や山東縦隊が2千人以上の日本軍・傀儡軍を撃退しました。フライング・タイガースは1941年12月20日の初戦で日本軍機9機を撃墜し、1942年1月にはその戦果が中国側から正式に表彰されています。
1942年2月には香港・九龍旅が結成され、新界地域に抗日ゲリラ基地が築かれました。5月中旬には陝西省天家会で第120師団が日本軍・傀儡軍500人以上を撃破し、5月から6月末にかけては日本軍5万人による華中・華北の抗日根拠地への攻勢に対し、現地部隊が1万人以上を撃退しました。
占領地で続く抵抗:浙江・江西から常徳まで
1942年5月、日本軍は浙赣鉄道沿線の中国側飛行場を破壊しようと攻勢を仕掛けましたが、浙江・江西両省では激しい抵抗が続きました。1943年5月には、湖北省上流域の交通路と資源確保を狙った日本軍に対し、中国側が粘り強く抵抗します。
1943年11~12月の常徳会戦では、湖南省常徳を守る第74軍第57師が16日間にわたり防衛戦を展開し、日本軍の前進を食い止めました。
反攻への道:大陸打通作戦と各地の反撃
1944年4月、日本軍は中国戦線での大規模攻勢を開始し、河南・湖南・広西の広い地域が一時的に失われました。しかし中国側は各地で反撃に転じ、戦局は次第に逆転していきます。
1945年3月には、河南・湖北での中国軍の反攻により、日本軍1万5千人以上が戦死・負傷しました。4月から8月にかけて広西省桂林・柳州方面での反攻が進み、8月までに広西全域が奪回されます。
同じく1945年4~6月には湖南省西部での戦いで、日本軍2万4千人以上が戦死・負傷しました。4月23日から6月11日にかけて延安では中国共産党第7回全国代表大会が開かれ、「大衆を動員し、日本を打倒し、全国民を解放し、新しい民主中国を建設する」方針が打ち出されます。
1945年夏:ソ連参戦、日本の降伏、そして勝利
1945年8月9日、ソ連軍が東北部に進軍し、日本の関東軍主力を打ち破りました。これにより日本の継戦能力は決定的に低下します。
8月15日、天皇・裕仁はラジオ放送で日本の無条件降伏を公表しました。9月2日には降伏文書への調印が行われ、太平洋戦争の終結が宣言されます。
中国では、9月3日が「中国人民の抗日戦争と世界反ファシズム戦争の勝利」の日とされ、近代以降初めて外国侵略に対する完全な勝利を収めた日として記憶されています。
9月9日には南京で中国戦区における日本軍降伏調印式が行われ、日本支那派遣軍総司令官の岡村寧次が降伏文書に署名し、中国政府代表の何応欽に引き渡しました。
中国戦線の歴史から、いまを考える
1937年から1945年までの中国戦線の歴史は、膨大な犠牲のうえに支えられた「抵抗」と「連帯」の記録でもあります。国内のさまざまな勢力が協力し、ソ連や米国など国際社会からの支援も受けながら、長期にわたる戦争を耐え抜きました。
2025年という節目の年に、このタイムラインを改めて読み解くことは、過去の惨禍を繰り返さないための出発点でもあります。学校で習った年号だけでなく、一つひとつの地名や戦いに込められた人々の選択に思いを馳せることで、歴史はより立体的に感じられるはずです。
記事で気づいた点や感じたことを、家族や友人、SNSで共有してみるのも一つの方法です。中国戦線の歴史を知ることは、日本とアジア、そして世界の平和について考える小さなきっかけにもなります。
Reference(s):
Unforgotten Front: Timeline of the China Theater of War, 1937–1945
cgtn.com








