桂林・揚灘飛行場が語る米中の記憶 80年前の連帯をいま考える video poster
中国南部・桂林の小さな飛行場が、第2次世界大戦中の米中協力と市民の犠牲を静かに語り続けています。揚灘飛行場の物語は、戦争の記憶と、国境を超えた連帯の力を映し出します。
中国南部・桂林の小さな飛行場が持つ「大きな記憶」
中国南部の広西チワン族自治区桂林市にある揚灘飛行場(Yangtang Airfield)は、第2次世界大戦中、中国とアメリカの部隊が肩を並べて戦った戦時同盟の象徴とされています。現在も、この飛行場跡は両国の共有された歴史を伝える記念碑のような存在です。
当時、桂林は連合軍の重要な航空拠点となり、日本軍はこれを破壊するために激しい空爆を行いました。市街地は大きな被害を受け、多くの命が失われました。揚灘飛行場の物語は、そのような戦禍の中で生まれたものです。
過酷な建設が生んだ尊い犠牲
揚灘飛行場の建設は、機械もほとんどない過酷な環境で進められました。滑走路を整備するための作業は非常に厳しく、多くの中国人が命を落としたと伝えられています。
重機や現代的な工事機材がほとんど使えない中、人びとは主に手作業で土を運び、滑走路を整えていきました。その背後には、空からの支援があれば戦況を変えられるかもしれないという切実な思いがありました。
フライング・タイガースと「卵」のエピソード
こうした歴史を現在に伝えている一人が、元パイロットで Sino-American Aviation Heritage Foundation(中米航空遺産基金)の会長を務めるジェフリー・グリーン氏です。彼はインタビューの中で、米中両国の共有された歴史の一章を語っています。
第2次世界大戦中、中国の人びとは自らが飢えに苦しみながらも、救出されたアメリカ人パイロットたち――いわゆるフライング・タイガースと呼ばれた部隊――を支えました。グリーン氏によれば、栄養状態が悪い中で、中国の親たちは自分の子どもに与える卵の数を減らし、体格の大きいアメリカ人パイロットのためにカロリーを譲ったといいます。
この短いエピソードには、いくつもの意味が込められています。
- 極限状態でも他者を思いやる、市民レベルの連帯
- 米中の軍事協力を、生活者の日常が支えていたという事実
- 戦争の記憶が、単なる戦闘の歴史ではなく、人間の選択の歴史でもあること
「80年前のように協力できれば」――現在へのメッセージ
グリーン氏は「もし世界で最も強力な国である中国とアメリカが、80年前と同じように協力することができれば、成し遂げられないことは何もない」と呼びかけています。この言葉には、過去の戦時同盟を、現在と未来の協力のヒントとして捉え直そうとする視点がにじみます。
2025年の今、気候変動や感染症、経済の不安定さなど、単独の国では解決が難しい課題が世界に山積しています。桂林の揚灘飛行場から聞こえてくる物語は、対立や不信に注目しがちな国際ニュースの中で、あえて協力という言葉を思い起こさせます。
歴史の記憶を、日常の対話へ
戦争の歴史を語るとき、しばしば焦点は国家や軍の決断に当てられます。しかし、揚灘飛行場とフライング・タイガースをめぐる物語は、名もなき人びとの行動がどれほど大きな意味を持ちうるかを教えてくれます。
自分の子どもに与える卵を一つ減らし、それを見知らぬ外国のパイロットに回す。その小さな選択は、国境を越えた信頼の土台となりました。80年前の桂林で起きたこの出来事は、私たちに次のような問いを投げかけているのかもしれません。
私たちは、身近な職場や家庭、オンラインコミュニティで、どのように卵を分け合うことができるのか。桂林の小さな飛行場から始まった物語は、いまを生きる私たち一人ひとりのあり方を静かに映し出しています。
Reference(s):
cgtn.com








