中国ゲームの文化的DNAとは Black Myth: Wukongが示した新時代
ビデオゲーム産業は過去10年ほどで大きく成長し、中国のゲーム市場は世界有数の規模になりました。ゲームは今や娯楽を超え、学び方や働き方、人とのつながり方そのものに影響を与えています。
こうした変化の中で、中国本土のゲームはどのように自らの文化的アイデンティティを表現しているのでしょうか。ゲーム研究者であり、北京師範大学で教えるフェラニア・リウ博士 (Felania Liu) は、ゲームを教育の道具であり異文化対話の新しい力と捉え、中国ゲームの文化的特徴を読み解いています。本記事では、その視点を手がかりに、中国ゲームの「文化的DNA」を考えます。
世界的ヒット作品が映した「中国ゲームの現在地」
二〇二四年に発売されたアクションゲーム「Black Myth: Wukong」は、発売後に世界の販売チャートを席巻し、二千万本という売り上げと高い評価を記録しました。この成功は、単なる商業的な快挙にとどまりませんでした。
リウ博士によれば、この作品は「中国ゲームがデジタル時代において、自らの文化的アイデンティティをどう表現するか」という大きな転換点を象徴しています。中国の物語や世界観、思想を前面に押し出しながらも、世界中のプレーヤーが楽しめるゲームとして成立している点に、新しい潮流が見えます。
その一方で、二〇二四年の成功の裏側には、そもそも「中国ゲームの文化的DNAとは何か」という、より深い問いが横たわっています。
古代思想に根ざした「遊び」の伝統
中国のゲーム文化の土台には、意外なほど深い哲学的伝統がありますが、それはしばしば見過ごされてきました。
儒教には「遊芸」という概念があります。これは、礼、音楽、弓術、兵車、書、算術という「六芸」を通じて人間としての徳を養うという考え方で、遊びや競技を含む広い意味での「ゲーム」を、人間形成に不可欠なものとして捉えるものです。
しかし主流の歴史観では、「君子は遊ばず」という態度がしばしば見られ、ゲームは「まじめな文化活動」に比べて軽んじられてきました。リウ博士はこれを、「君子はゲームをしない」という姿勢として言い表します。
この矛盾は、儒教が重んじる価値観と関係しています。儒教は、個人の満足よりも共同体全体の利益を優先する「外向きの価値」を重視します。一方、ゲームは本質的に「自分の楽しさ」や「自己充足」を目的とする活動です。そのため、共同体の利益を何よりも優先する価値観とは、しばしば緊張関係に置かれてきました。
現代においても、「ゲームは時間の無駄だ」「勉強や仕事の方が大事だ」という視線が根強い背景には、こうした歴史的な文脈があると考えられます。
抑圧されてきたもう一つの「ゲーム哲学」
とはいえ、中国思想には、儒教とは異なる豊かな「遊び」のイメージも存在します。そこには、現代ゲームに通じる発想が少なくありません。
道家の思想家である荘子は、「逍遥遊」という概念を打ち出しました。これは、目的や実利に縛られない自由で解放された存在状態を意味します。この「あてもなく世界をさまよう」感覚は、広大な世界を歩き回りながら、自分なりのルートで体験を紡いでいくオープンワールドゲームのプレイスタイルによく似ています。
仏教にもゲーム的な発想があります。「遊戯神通」という考え方は、遊びのように自在な振る舞いを通じて悟りに近づくイメージを示します。また禅では、公案と呼ばれる一見すると矛盾した問いかけや、予想外の答えを用いて、既存の思考パターンを打ち破ろうとします。これは、プレーヤーに発想の転換を迫るゲームのパズルや謎解きの仕組みにも重なります。
リウ博士は、こうした伝統の中に、「長く抑え込まれてきたが、本来は非常に活力に満ちた中国のゲーム哲学」が潜んでいると指摘します。それは、道家や仏教に見られる自由さや遊び心が、現代のゲームデザインの発想と響き合う可能性を持っているということでもあります。
三つの思想から見えるキーワード
- 儒教の遊芸: 遊びを徳の修養と結びつける視点
- 荘子の逍遥遊: 目的から自由になった、オープンワールド的な探索
- 仏教の遊戯神通と禅: 矛盾や驚きを通じた、悟りとパズル的思考
これら三つの線が交わるところに、中国ゲームの文化的DNAの一端を見ることができます。
「遊び」と「ゲーム」を分けない言語感覚
中国と西洋のゲーム文化の違いは、言語のレベルからも現れます。英語では、行為としての「play」と、ルールや構造を持つ「game」が明確に区別されています。遊ぶことと、ゲームとして成立していることは、別の概念として扱われます。
一方、中国語では「遊戯」という言葉が、遊びの動きとゲームのパフォーマンスの両方を含みます。リウ博士は、この言葉が「行為」と「形式」のあいだの流動的な一体性を表していると指摘します。
このような言語感覚は、「遊ぶこと」と「ゲームとして成り立っていること」を対立させず、陰と陽のように互いを補い合う関係として捉える発想につながります。プレーヤーの自由な遊び方と、ゲームが持つルールや物語構造が、どちらか一方ではなく、両方そろって初めて意味を持つという考え方です。
この「行為と形式の同時性」という視点は、ゲームデザインにおいても、物語性の高さとプレーヤーの自由度をどう両立させるか、といったテーマに影響を与えていると考えられます。
教育と異文化対話のツールとしての中国ゲーム
リウ博士は、ゲームを単なる娯楽ではなく、「教育の道具」であり「異文化対話の新しい力」として捉え直す必要性を提案しています。二〇二四年に生まれた「Black Myth: Wukong」のような作品は、中国の物語や思想、美学に世界のプレーヤーが触れる入口となりました。
中国の古典や哲学を背景に持つゲームは、プレーヤーにとって次のような経験をもたらし得ます。
- 中国思想のキーワードやイメージに、教科書ではなく体験として触れられる
- 異なる文化圏の人々が、同じゲーム体験を共有することで、共通の話題や理解を持てる
- 自国の文化を、デジタル空間でどのように再解釈し表現するかを問い直すきっかけになる
二〇二五年現在、中国本土のゲーム産業は引き続き成長を続けています。その中で、儒教、道家、仏教、禅といった伝統思想や、「遊戯」という言葉に込められた感覚が、どのようにゲームの中で再び立ち上がっていくのか。これは、中国ゲームを国際ニュースとして追ううえでも、注目すべきポイントと言えるでしょう。
中国ゲームの文化的DNAを理解することは、単に一つの国のゲーム動向を知ることではありません。ゲームを通じて文化がどのように翻訳され、交わり、再発見されていくのかを考えるための、重要な手がかりになりつつあります。
Reference(s):
cgtn.com








