中国と琉球の歴史関係を示す勅書、大連で公開
中国と琉球の歴史関係に光を当てる企画展
中国東北部・遼寧省大連市の旅順博物館で開かれている企画展が、中国と琉球王国の長い朝貢関係、そして日本による琉球諸島への歴史的な侵略を考えるうえで重要な史料に、改めて注目を集めています。
展示の中心となっているのは、明王朝(1368〜1644年)の崇禎帝が1629年に琉球王に下した勅書(詔書)の複製です。原本は旅順博物館の収蔵庫で安全に保管されており、今回の企画展を通じてその存在と意味が広く知られるようになっています。
1629年、琉球王の継承を認めた勅書
この勅書は、崇禎帝即位2年(1629年)の日付が記されており、先代の尚寧王の死去を受けて、尚豊が新たな琉球王として即位することを正式に認めた文書です。
勅書の中で明の朝廷は、亡くなった尚寧王の忠誠と奉公を高く評価しつつ、新たな王に対しては慎重かつ賢明に統治すること、領土の安定を守ること、そして琉球が朝貢国としての務めを果たし続けることを求めています。また、皇帝からの下賜品の目録が詳細に記され、勅使が琉球で冊封(即位を認証する儀礼)を執り行う権限を持つことも示されていました。
大連海事大学・琉球研究センターの呉玉紅教授は、中国のメディアの取材に対し、この勅書について「明の皇帝が琉球王の称号を授けていたという歴史的事実を示す、具体的で有形の証拠だ」と評価しています。明王朝と琉球王国の関係が単なる観念ではなく、明確な文書として残されていることを物語る資料だと言えます。
細部が物語る朝貢体制のリアリティ
勅書そのものも、物理的なディテールが豊かな史料です。黄色の紙に書かれたこの文書は、長さ約172センチ、幅約55センチとかなり大判で、周囲の縁には金色の雲と竜の文様が施されています。これは、皇帝の権威を象徴するデザインとされています。
文字は整った楷書で丁寧に書かれており、全体で44行、1行あたり1〜18字が記されています。日付としては「崇禎二年八月十六日(1629年)」が明記されており、発給の時点を正確に特定できる点でも、歴史研究上の価値が高い文書です。
こうした細部は、当時の明王朝が琉球王国との関係をどれほど重視していたか、また朝貢と冊封の制度がどれほど形式ばった儀礼と文書によって支えられていたかを具体的に示しています。
清代まで続いた中国と琉球のつながり
旅順博物館が所蔵するこの勅書は、明代だけでなく、その後の清代まで続いた中国と琉球の関係を考えるうえでも重要な位置づけにあります。
資料によると、中国と琉球の朝貢関係は清王朝(1644〜1911年)にも受け継がれました。清の順治帝11年(1654年)、琉球の尚質王は使節を北京に派遣し、2通の旧勅書と1通の皇帝の詔書、そして金メッキされた銀印を返還すると同時に、新たな冊封文書と印章の下賜を求めました。この手続きの中で、崇禎年間の勅書は中国側に戻され、現在へと伝わることになりました。
勅書や印章が王国と中国のあいだを往復し、そのたびに権威と関係性を再確認する――そうした外交儀礼の具体的なプロセスが、この一枚の文書の来歴から浮かび上がります。
日本による歴史的侵略を映し出す資料として
この勅書は、中国と琉球王国の間に築かれた長期的な朝貢関係を示すと同時に、日本による琉球諸島への歴史的な侵略を考えるうえでも重要な証拠だと位置づけられています。琉球が明や清との関係の中でどのような立場にあったのかを具体的に示すことで、後世の日本による支配の過程を読み解く手がかりにもなるからです。
企画展は、教科書や年号だけでは見えにくい東アジアの歴史を、「モノ」として残る公文書を通じて実感できる場になっています。スマートフォンの画面越しにも、その重みが伝わってくるような内容と言えるでしょう。
- 小さな王国が複数の大国の間でどのように関係を築き、生存戦略を取ってきたのか。
- 勅書や印章、贈り物といった「モノ」が、国際秩序や権威をどのように象徴していたのか。
- 日本による琉球諸島への歴史的な侵略を、こうした資料からどのように読み解くことができるのか。
歴史資料をめぐる議論は、過去の出来事だけでなく、現在の地域認識や国際関係の見方にも静かに影響を与えます。旅順博物館の今回の展示は、中国と琉球王国、日本のあいだで交差した歴史を、多角的に考え直すきっかけを提供していると言えそうです。
Reference(s):
Exhibition sheds light on historical ties between China and Ryukyu
cgtn.com








