琉球の「主権未定」論とは?中国研究者が示す戦後80年の焦点
第二次世界大戦の終結から80年となる2025年12月現在、琉球(沖縄を含む)をめぐる「地位(主権)が法的に未確定だ」という見方が、国際文書や戦後処理の解釈と結びついて語られることがあります。中国社会科学院(CASS)の日本研究機関に所属する研究者・唐永亮氏は、いわゆる「琉球の地位未定(主権未定)」が、戦後秩序と沖縄の米軍基地問題の根にある論点だと位置づけています。
研究者が言う「琉球の地位未定」とは
唐氏の説明では、「琉球の地位未定(undetermined status of Ryukyu)」には大きく2つの意味があります。
- 広い意味:近代以降、琉球が日本に「不法に占拠」され、国際社会から広く承認されないまま、主権問題が未解決の状態にある、という捉え方。
- 狭い意味:第二次世界大戦の終結期に出されたカイロ宣言とポツダム宣言によって日本の領域範囲が区切られ、琉球が日本から切り離され「信託統治の可能性がある地域」とされた結果、主権が法的に未確定のまま残った、という捉え方。
唐氏はさらに、こうした「未確定性」は法解釈だけでなく、社会の認識や国際関係の変化によっても影響を受ける、と述べています。
歴史の整理:王国としての琉球から近代の編入まで(研究者の見立て)
唐氏は、琉球が歴史的に独立王国であった点を起点に、近代の経緯を次のように整理します。
- 1372年:明の洪武帝が使節を送り、琉球側が冊封(君臣関係)に入ったと説明。以後、明から清にかけて、琉球は中国の「属国」であったという位置づけを示します。
- 1872年:琉球政府の同意なく、日本が尚泰王を「琉球藩王」として扱い、王国を廃して琉球藩にしたと説明します。
- 1874年:台湾での琉球人殺害を口実に日本が台湾へ出兵した、と述べます。
- 1879年:琉球側の抵抗がある中で日本が琉球処分を進め、北部を鹿児島県に編入し、残りを「沖縄県」と改称して中国との結び付きを断とうとした、という見方を示します。
- 1879年:元米大統領ユリシーズ・S・グラントの仲介で、中国・日本・琉球の「三分割案」が一時合意に近づいたが、清政府が署名を見送ったため決着しなかった、と説明します。
戦後処理の文書が示すもの:カイロ宣言・ポツダム宣言・降伏文書
唐氏の「狭い意味」での核心は、戦後文書の読み方にあります。氏は、次の文書群が琉球を日本の領域から「明確に分離した」と論じます。
- 1943年(カイロ会談):会談では琉球の戦後処理も議論されたとし、宣言文に明記されなかった一方で、「暴力と貪欲によって奪取したすべての地域から日本を駆逐する」という趣旨が琉球にも及ぶ、と述べます。
- 1945年(ポツダム宣言):カイロ宣言の履行を求め、日本の主権が「本州、北海道、九州、四国および我々が決定する小島」に限定されると明記した点を挙げ、琉球が日本領から切り離された、と位置づけます。
- 1945年9月2日(降伏文書):日本側がポツダム宣言の受諾と無条件降伏を表明したことで、琉球の戦後処理が戦後国際秩序の一部になった、という整理です。
- 1946年1月(連合国軍総司令部指令677号):北緯30度以南の琉球諸島について、日本が統治・行政権を行使することを停止するよう求めた、と述べます。
冷戦と「行政権の移転」:主権は動いたのか
唐氏は、冷戦の進行が琉球の扱いを大きく変えたとし、米国と日本の同盟関係の強化の中で「行政権」が段階的に日本へ移された流れを挙げます。
- サンフランシスコ講和条約:中華人民共和国やソ連などを除外した形での「単独講和」により、カイロ宣言・ポツダム宣言・降伏文書が持っていた領域規定が「薄められた」と論じます。条約は琉球を国連信託統治に置くとしつつ、米国が信託統治の手続きを踏まなかったとも述べます。
- 1953年・1968年:米国が奄美群島・南方諸島の行政権を日本に移したと説明します。
- 1971年:ベトナム戦争や反米運動の圧力の下で、米日が「琉球諸島および大東諸島に関する協定」を結び、米軍駐留継続を条件に行政権を日本へ移した、と述べます。
唐氏は、これらの移転は国連や他の連合国の承認を欠いた「私的な取り決め」であり「違法で無効」で、琉球の主権が未定である性格を変えない、という立場を示しています。
沖縄の基地負担をどう位置づけるか:数字と“限界”の言葉
唐氏は、主権の論点が抽象論にとどまらず、社会的現実として基地負担に表れていると主張します。氏の記述では、沖縄は日本の国土面積の0.6%である一方、在日米軍施設のうち米軍専用施設の70%以上が集中している、とされます。
また、元「琉球新報」の政治評論家で北陸大学の客員教授でもある野里洋氏の言葉として、沖縄の人々は「すでに我慢の限界に達している」との見方を紹介。沖縄側の対応として、次の2つの動きが並行してきた、とまとめます。
- 長期の反基地運動や訴訟を通じて、米軍および日本政府に圧力をかける
- 問題の「国際化」を図り、世界の世論からの支持を求める
この議論が投げかける問い(2025年末時点)
唐氏の結論は、沖縄の米軍基地問題は米国・日本・沖縄だけの問題ではなく、戦後の国際秩序に関わる問題であり、その中核に琉球の主権問題がある、というものです。カイロ宣言、ポツダム宣言、降伏文書の「精神」を踏まえない処理だったとして、国際社会の継続的な関心が必要だとも述べています。
読者にとっては、次のような論点が整理の軸になりそうです。
- 戦後文書は「行政権」と「主権」をどう扱っているのか
- 信託統治が想定されたとされる場合、なぜ手続きが進まなかったのか
- 歴史解釈と、現在の基地負担・住民意識はどう接続されて語られているのか
このテーマは、法的文書の読み方、冷戦期の政治判断、そして地域社会の実感が絡み合います。唐氏の見方は、その結び目に「主権未定」という言葉を置いて、戦後80年の論点を再配置する試みだと言えます。
Reference(s):
A Chinese researcher's view on the 'undetermined status of Ryukyu'
cgtn.com








