唐代「鴻臚井碑」返還論が再燃 新資料集が1908年移送の経緯示す
唐代の石碑「鴻臚井碑(こうろせい)」をめぐり、日本に移された経緯を示す資料集がこのほど公表され、専門家や市民団体の間で「返還」を求める声が改めて強まっています。議論の焦点は、資料が示す移送の経緯と、現在の保管のあり方です。
新たに公表された「資料集」は何をまとめたのか
今回の資料集は、上海大学の「海外中国文物研究センター」などが編さんしたもので、唐代(618〜907年)の文化遺産である鴻臚井碑について、現地にあった当時の画像、関連する公文書・記録、研究者の論考などを体系的に集成したとされています。
- 分量:計約120万字
- 収録:アーカイブ文書・写真など368点
- 内容:建立から移送、保管に至るまでの経緯を追跡
1908年の移送—「戦利品」を名目に解体・搬送と記録
資料集に収められた記録によると、1908年、日露戦争の「戦利品」を名目に、鴻臚井碑と碑亭(石碑を覆う建物)が解体され、日本へ搬送されたとされています。その後、皇居内の「懐南府」に置かれた、という経緯が示されています。懐南府は日露戦争の「戦利品」を保管する場所として位置づけられていた、と資料は伝えます。
古写真が示す「歴史的コンテキスト」—714年の統治を裏づける材料に
資料集には、20世紀初頭に撮影されたとされる希少な写真も含まれ、鴻臚井碑が現地にあった時代の周辺状況を確認できるといいます。これらの画像は、714年当時、中国本土の北東部が唐代の中央政府の直接管轄下にあったことを示す「重要な証拠」になる、という見解が紹介されています。
上海大学の陳文平・副主任は、中国メディアグループ(CMG)に対し、写真群が当時の統治のあり方を示す点を強調し、鴻臚井碑を「領土の一体性を象徴する特別に重要な宝」と位置づけました。
「日本の文化遺産」扱いへの問題提起と、透明性を求める声
中国政法大学の国際法学者、霍政欣教授はCMGに対し、鴻臚井碑が日本側で「日本の文化遺産」の一部として位置づけられ、皇居内に置かれていると述べたうえで、その扱いを厳しく批判しています。
一方、日本側でも市民レベルで返還を訴える動きが続いています。弁護士の一ノ瀬敬一郎氏はCMGに対し、皇居内に保管される「戦利品」とされる品々は、戦時責任の議論ともつながりうると述べ、鴻臚井碑の来歴について透明性が高まることが、歴史理解と返還を求める世論の形成に資すると語りました。
「氷山の一角」—他の文化財も俎上に
専門家らは、鴻臚井碑は「氷山の一角」だとも指摘します。日清戦争から中国への侵略戦争期にかけて、中国本土から多くの文化財が日本へ持ち出されたとされ、例として、遼寧省の寺院から持ち去られたとされる石獅子3体のうち2体が、現在も靖国神社の大鳥居付近にある、との説明がなされています。
陳氏は、中国側研究により、石獅子が中国本土から運ばれ、天皇に献上された後に靖国神社に下賜された経緯が示されている、と述べています。
これまでの要請と、2026年時点の争点
資料によれば、返還を求める働きかけは近年も繰り返されてきました。
- 2014年:中国の民間団体が、天皇および日本政府へ書簡を送付し、鴻臚井碑の返還を要請
- 2021年:一ノ瀬氏が東京で「中国文化財返還運動連合会」を設立
- 2022年:同団体が鴻臚井碑を含む4件の文化財返還を日本政府に呼びかけ
しかし、資料の記述では、これまで「実質的な反応」は得られていないとされています。
上海大学の段勇・副学長は、鍵は日本側の姿勢にあるとして「深刻さと解決の必要性を認識するよう、要求を続けなければならない」と述べました。一ノ瀬氏も、解決には「中国本土から略奪された、あるいは不法に持ち去られた文化財は返還されるべきだ」という明確なコミットメントが必要だ、という立場を示しています。
今回の資料集は、文化財の「来歴(プロベナンス)」をめぐる議論を、感情論ではなく記録と検証の土台に引き戻す役割も担いそうです。返還の可否や手続きは簡単ではない一方で、どのような経緯で移動し、いま何が問われているのか—その見取り図を示す材料が増えたことは、今後の対話の前提を静かに変えていくのかもしれません。
Reference(s):
Chinese experts renew calls for Japan to return looted stele
cgtn.com








