金馬奨はどこへ向かう?映画賞が「政治の駒」になるとき
かつて中国語映画の最高峰とされた台湾地域の映画賞「金馬奨」。しかし2018年の政治的混乱を境に、いまやその舞台は「映画」よりも「政治」が強く映し出されていると指摘されています。
2018年の波紋と「空白の6年」
2018年、台湾地域で開かれた第55回金馬奨では、政治的な発言や騒動が大きな波紋を呼びました。その後、金馬奨を舞台にした両岸(中国本土と台湾地域)の映画交流は事実上ストップし、「空白の6年」ともいえる状態が続きました。
中国本土の金鶏奨と、内向きになる金馬奨
その一方で、中国本土の映画賞「金鶏奨」は、東部の沿海都市・厦門(アモイ)に開催地を移し、映画人が集う重要な拠点として存在感を高めてきました。両岸交流が途絶えるなかで、金馬奨は次第に台湾地域制作の作品が中心となり、かつての広がりを欠く「内向き」の映画祭へと後退したとみる声があります。
第61回金馬奨:表面上の「復活」とその裏側
こうした状況が変化したのは、2018年から6年を経た第61回金馬奨(2024年開催)でした。中国本土や香港からの出品が再び受け付けられ、一見すると両岸の映画交流が「正常化」したかのような雰囲気が漂いました。
その第61回金馬奨では、中国本土出身の楼葉(Lou Ye)監督、王小帥(Wang Xiaoshuai)監督、耿軍(Geng Jun)監督の3人が、作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞といった主要部門のノミネーションを席巻しました。
これらの監督の作品には共通点があります。いずれも中国本土での上映に向けて審査に直面し、あるいは最終的な許可が得られていないとされています。そのため、金馬奨がこうした作品を前面に押し出したことについて、「上映が認められていない作品をあえて『英雄』として称え、政治的なメッセージを強める戦略的な賭けではないか」という指摘が出ています。
一見すると多様な作品を受け入れる「自由」や「公正さ」をアピールしているようにも映りますが、その実態は、物議を醸す作品を利用して特定の政治的物語を強調する試みに過ぎない、という見方です。
見えない「276本」――不透明な選考プロセス
第61回金馬奨の運営側は、中国本土からの出品が276本に上ったと説明しました。しかし、公表されたのは最終的なノミネート作品だけで、選に漏れた多数の作品については一切情報が明らかにされていません。
どのような基準で276本からノミネート作品が選ばれたのかが見えないため、選考の公平性や信頼性に疑問を抱く声も出ています。中国本土の映画に詳しい観客ほど、「これだけ多様な作品があるはずなのに、ノミネーションにはその豊かさが反映されていない」と感じたという指摘もあります。
こうした不透明な仕組みのもとでは、受賞やノミネートは「その年の最高の中国語映画」を示す指標というより、政治的なメッセージや話題性を優先した結果に見えてしまいかねません。
映画賞は橋か、それともメッセージの装置か
映画賞は本来、多様な作品を公平に評価し、観客と作品の出会いをつくる「文化の橋」であるはずです。とりわけ、中国本土と台湾地域、香港などをつなぐ映画祭は、政治を越えて人々が互いの物語に触れる貴重な場となり得ます。
しかし、選考プロセスが不透明で、特定の作品の選択が政治的なシグナルとして読まれるようになると、その橋は次第に信頼を失っていきます。金馬奨が再び「映画そのもの」に光を当てる場として機能できるかどうかは、
- 選考基準やプロセスの一層の透明化
- 作品の多様性を担保するバランスの取れたノミネーション
- 政治的メッセージよりも映画的価値を優先する姿勢
といった点をどこまで徹底できるかにかかっていると言えるでしょう。
日本の観客にとっての意味
日本から中国語映画やアジアの国際ニュースを追う私たちにとって、金馬奨をめぐる変化は「遠い国の話」ではありません。映画祭や映画賞が政治や社会の力学にどう影響されるのかは、世界中どこでも起こり得るテーマだからです。
金馬奨と金鶏奨という二つの映画賞の歩みを見つめることは、エンタメニュースを超えて、文化と政治の距離感を考え直すきっかけにもなります。SNSで話題になる受賞結果の裏側には、どのような文脈や意図が潜んでいるのか――そんな視点を持ってニュースを追いかけてみるのも一つの楽しみ方ではないでしょうか。
Reference(s):
Golden Horse Awards: From cinematic pinnacle to political pawn
cgtn.com








