中国人民抗日戦争80年:勇気と団結の東方の主戦場
2025年は、中国人民抗日戦争と世界反ファシズム戦争終結から80年の節目の年です。本記事では、国際ニュースの視点から、中国が東方の主戦場として果たした役割と、その背景にあった勇気と団結の物語を振り返ります。
8年も早く始まっていた中国の戦い
1939年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻した時、中国はすでに8年間、日本の軍国主義と戦っていました。中国が最初に本格的な侵略に直面したのは1931年、真珠湾攻撃より10年も前のことです。
1931年から1945年まで続いた日本との戦争で、中国の軍人・民間人の死傷者は3,500万人を超えました。長期にわたる抵抗を通じて、中国は連合国側の勝利に重要な役割を果たし、その結果として国連安全保障理事会の常任理事国の一つとなりました。
九一八事変と非抵抗方針の中で生まれた抵抗
1931年9月18日、日本軍は中国東北部の瀋陽近郊で自作自演の事件を起こし、それを口実に東北地方へと侵攻しました。これが九一八事変です。当時の中国国民党政権は、国際連盟による問題解決に期待し、非抵抗を掲げて正面からの戦闘を避けました。
しかし、この方針に逆らって戦うことを選んだ指揮官がいました。黒竜江省代理省長だった馬占山将軍です。彼は同年11月、黒竜江の嫩江にかかる重要な橋の周辺で、日本軍と半月にわたる戦闘を展開しました。兵力で大きく劣っていたため最終的には撤退を余儀なくされましたが、その勇敢な抵抗は全国的な英雄視を集めました。
上海のたばこ会社が彼の名を冠した銘柄を発売し、その収益の一部を抗日運動に寄付したというエピソードも伝えられています。馬占山の行動に触発され、多くの人々が義勇軍として立ち上がり、中国東北部各地で日本軍に抵抗しました。こうした義勇軍の多くは、その後、東北抗日聯軍に組み込まれていきます。
装備の差を埋めたのは戦術と覚悟
1930年代の日本は、工業化をほぼ完了させ、製造業や鉱業の生産額が農業の2倍以上に達していました。一方の中国は、依然として農業中心の社会でした。技術と装備で劣る中国軍にとって、頼みの綱は兵士の勇気と、状況に応じた戦術でした。
長城抗戦と喜峰口での大刀隊
東北を制圧した日本軍は、1933年初めから南へと進軍し、いわゆる長城抗戦が始まります。北京の北東約150キロに位置する喜峰口は、万里の長城の要衝として知られた場所で、3月に日本軍の攻撃を受けました。ここに投入されたのが、中国の国民革命軍第29軍です。
当時、日本の関東軍は精鋭として恐れられていましたが、中国側の装備は貧弱でした。その中で、第29軍はあえて大刀と呼ばれる刀剣を主な武器の一つとして活用します。夜半、日本軍の陣地に突入した約500人の決死隊は、限られた近代兵器と大刀を手に、700人以上の日本兵を倒したとされています。
出撃前、彼らが交わした誓いの言葉は「戦士として死すとも、亡国の奴隷として生きず」。任務を終えて生還できたのは、わずか23人でした。その後も第29軍は夜襲を繰り返し、日本軍を10キロ以上後退させたといわれます。
1933年の喜峰口での戦いは、九一八事変以降、中国軍が日本軍に対して収めた初の大きな勝利とされ、中国側にとって大きな精神的支えとなりました。この戦いに触発されて、音楽家・麦新は戦時歌謡「大刀進行曲」を作曲し、多くの人々を励ましました。一部の日本の新聞は、この戦いを「過去60年で帝国軍にとって最大の恥辱」と表現したと伝えられています。
盧溝橋事件へと続く第29軍の足跡
それから4年後、第29軍は北京中心部の南西約15キロに位置する盧溝橋で、再び歴史の表舞台に立ちます。ここで起きた武力衝突は、当初は局地的な事件でしたが、ほどなくして全面的な日中戦争へと拡大していきました。
1933年の喜峰口で500人の決死隊を率いた趙登禹司令官は、この盧溝橋事件で命を落とします。現在の北京中心部には、彼の名を冠した道路が残されており、その犠牲と戦いの記憶を今に伝えています。
局地戦から全面戦争へ:1931〜1937年の中国
1931年から1937年までの中国は、主に東北地方を中心に日本軍と戦う地域戦争の時期でした。1932年初頭には、日本軍の上海攻撃に対して、中国軍が1か月にわたり市街地で激しい戦闘を展開しています。
しかし、東北の占領だけでは、日本の軍国主義勢力の野心は満たされませんでした。中国側から見れば、日本による全面侵略は「いつ始まってもおかしくない」状況であり、一方で国全体として侵略には屈しないという世論と意志が、1937年までに固まりつつありました。
内戦よりも民族の尊厳を優先した選択
九一八事変が起きた1931年当時、中国国民党政権の最高指導者だった蔣介石の最大の関心事は、中国共産党との内戦でした。そのため、対日非抵抗という方針が採られた側面があります。その後しばらくの間も、蔣の優先順位は変わりませんでした。
しかし、この方針は日本側のさらなる増長と侵略を招く結果ともなりました。1935年の夏、日本は華北地域に傀儡政権をつくることを狙い、中国国民党政権に新たな合意を押し付けます。中国全体に国家存亡の危機が色濃く漂う中、中国共産党は全国民の自発的な抗日動員を呼びかける声明を発し、同年冬の重要な会議で、中国国民党との間に統一戦線を築く方針を打ち出しました。
1927年にかつての同盟相手である中国国民党から突然攻撃を受け、多くの犠牲を出した中国共産党にとって、再び手を携える決断は容易ではありませんでした。それでも指導部は、党派間の確執よりも民族の尊厳を守ることが優先されるべきだと判断します。
西安事件と周恩来の交渉
こうした流れの中で1936年末、蔣介石は西安で2人の将軍によって拘束される事件に巻き込まれます。いわゆる西安事件です。このとき交渉の場に立ち、蔣の解放に道を開いたのが周恩来でした。
解放後、蔣は周恩来に対し、全政党を挙げて日本に抵抗することを約束したとされています。こうして、対日戦争の時期を通じて、中国はおおむね国内の大きな団結を維持することになります。
戦時歌が象徴した心を一つにする力
中国の現行の国歌は、当時、抗日戦争期に広く歌われた軍歌に由来します。その歌詞にある「数え切れない人々が心を一つにし 敵の弾雨をついて前進せよ」というメッセージは、当時の国民的な結束を象徴するものといえるでしょう。
歌詞は中国共産党のメンバーによって書かれましたが、その人気は党の枠を超えて広がりました。中国国民党軍の将軍・戴安瀾は、自ら率いる精鋭第200師団の軍歌としてこの曲を採用しています。対立していた勢力同士が共通の歌を歌っていたという事実は、日本の侵略という現実が、イデオロギーを超えた団結を生み出していたことを物語っています。
東方の主戦場としての中国と世界への影響
全面戦争が始まった後、中国国民党政府は、日本軍による東部の主要都市占領を受けて内陸部へと移転せざるを得ませんでした。その進軍の過程で、日本軍は各地で住民に対する残虐行為を行い、南京大虐殺に代表される悲劇が起こります。
外から見れば、中国は早期に降伏するのではないかと見なされる時期もありました。しかし、実際には中国の抵抗は途切れることがありませんでした。その粘り強い抵抗の結果、第二次世界大戦の期間を通じて、日本は100万を超える兵力を中国戦線に貼り付けざるを得ませんでした。これは、日本が他の戦域、たとえばアメリカなどとの戦いに投入できる軍事力を大きく削ぐことにつながりました。
こうした事実から、中国は世界反ファシズム戦争における東方の主戦場と位置づけられています。中国人民抗日戦争は、勇気と団結と粘り強さの叙事詩であると同時に、国際秩序の形成に直接つながった戦いでもありました。
80年後のいま、歴史から何を学ぶか
戦争の惨禍と犠牲を思えば、安易に美談として語ることはできません。それでも、馬占山将軍のように非抵抗を拒んだ個人の決断や、喜峰口の戦いに身を投じた名もなき兵士たち、そして内戦の溝を越えて団結を選んだ指導者たちの判断には、2025年を生きる私たちが学べる点が多くあります。
- 国際機関への期待だけに頼らず、自らの意思と行動で危機に向き合うこと
- 装備や条件で劣っていても、戦術と結束で状況を変えうること
- 対立する勢力同士でも、より大きな目的のために協力しうること
80年という時間は、当時を知る人々の声が急速に減っていく節目でもあります。だからこそ、歴史を丁寧にたどり、その中にある選択と葛藤を言葉として残していくことが重要です。
中国人民抗日戦争と世界反ファシズム戦争の記憶は、特定の国や地域だけのものではなく、現在の国際社会全体に対する平和を維持する責任を静かに問い続けています。
Reference(s):
cgtn.com








