台湾在住作家Yang Duが描く「猫のように待つ」母と子の物語 video poster
台湾在住の作家Yang Duさんが紹介した一篇の詩が、母と子の距離、喪失、そして「待つ」という行為の意味を静かに問いかけています。親元を離れて暮らす人も多い2025年の今、この物語は多くの読者の心に重なる部分がありそうです。
駅で繰り返された別れと、「猫のように待つ」母
Yang Duさんは、自身の子ども時代をこう振り返ります。幼い頃、母はいつも駅で見送りながら「ちゃんと帰ってきてね。私を、いつも目を凝らして待つ猫みたいにはさせないで」と語りかけていたといいます。その言葉には、不安とユーモアと、子どもへの深い愛情が同時に込められていたのでしょう。
やがて進学のために台北の大学へ向かうようになると、駅での別れは繰り返されます。改札に消えていく子どもの背中を見送りながら、母はやはり「必ず帰ってきて」と念を押します。実際には、母自身こそが「猫のように」じっと家で待ち続ける存在だったことが、このエピソードから伝わってきます。
海外に出ても続いた「待つ」時間
大学を卒業し、Yang Duさんが仕事で海外へ出るようになってからも、母の姿勢は変わりませんでした。時差や距離があっても、母はいつでも帰りを待ち構え、「帰ってきたらマッサージしてね」とでも言うように、子どもの手を楽しみにしていたといいます。
ここでの「猫」は、ただ寂しさを象徴するだけではありません。気配に敏感で、扉の音や足音に耳を澄ます、小さくて誇り高い存在。その猫のように、母は静かに、しかし集中して、子どもの帰宅を待っていた。短い描写の中に、そんな情景が濃密に立ち上がります。
母の死後、今度は子どもが「待つ」番に
物語はそこで終わりません。母が亡くなったあと、今度はYang Duさんのほうが「猫のように」待つ側になります。今は、母が夢の中にふと現れてくれる瞬間を、じっと待つ立場になった、と語ります。
生前は母が子どもを待ち、死別のあとには子どもが母を待つ。この役割の逆転は、喪失の痛みと同時に、「待つ」という行為が持つ深い意味を浮かび上がらせます。誰かを待つことは、その人を忘れないという宣言であり、関係が生き続けていることの静かな証でもあるのかもしれません。
「待つこと」は、現代におけるささやかな愛情表現
スマートフォンでいつでも連絡がとれる時代でも、駅で見送り、家で帰りを待つという行為には、特別な重みがあります。メッセージや通話では代替できない「身体の時間」を、相手のために差し出すことになるからです。
親元を離れて暮らす人、長距離恋愛や単身赴任をしている人、海外で働く人にとって、「猫のように待つ」誰かの存在は、ときに負担に感じられることもあるかもしれません。しかしYang Duさんの詩のような言葉に触れると、その「待つ時間」が、待つ側にとっても、待たれる側にとっても、かけがえのない関係の証であることに気づかされます。
あなたにとって「待っている人」は誰か
この短いエピソードは、国や地域をこえて共感を呼びうる、小さな国際ニュースのような物語です。日本語ニュースとして読み解くことで、自分自身の経験に重ねて考えるきっかけにもなります。
読み終えたあと、ふと問いが残ります。今、自分の帰りを「猫のように」待っている人は、誰だろうか。あるいは、自分が誰かの帰りを待ち続けてはいないだろうか。その顔を一人ひとり思い浮かべてみることが、この物語への一番静かな応答になるのかもしれません。
SNSでシェアするときの一言ヒント
SNSでこの記事やYang Duさんの言葉を共有するときは、こんなハッシュタグや一言を添えてみるのもよさそうです。
- 「母が猫のように私を待っていた。その後は、私が母を夢の中で待つ番に。」
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- 自分の帰りを待ってくれている人の顔を、久しぶりに思い出した。
Reference(s):
cgtn.com








