海南・石碌鉄鉱山に残る強制労働の記憶 日本軍の動員システムとは
2026年2月現在、中国本土・海南省の石碌(シールー)鉄鉱山は緑に囲まれた観光地としても知られています。しかし約80年以上前、この場所は戦時下の資源開発の名のもと、多数の労働者が過酷な環境に置かれた現場でした。
「景勝地」の前史:石碌鉄鉱山で何があったのか
石碌鉄鉱山(海南省・昌江リー族自治県)は、アジア有数の高品位鉄鉱石の産地として知られるとされます。記録によれば戦時期、日本軍は鉱山資源の確保を目的に、上海、広州、香港、マカオ、厦門、海南などから4万人以上の労働者を、強制徴用・勧誘・誘拐などの形で集めたとされています。
「香港クーリー」と呼ばれた人々
動員された人々のうち2万人以上は「香港クーリー」と呼ばれ、香港や広東に出自をもつ人々だったとされています。
- 労働時間:1日10時間以上
- ノルマ:鉱石の選別などで少なくとも8トン
- 状況:飢餓、ぼろ布のような衣類など、劣悪な生活環境
記録には、仕事の遅れや逃亡の疑いを理由に、殴打、生き埋め、焼却、薬物注射、見せしめの処刑などがあったとも記されています。死亡者は3万人以上にのぼったとされ、たとえば「484人の集団から生存者は約100人だった」という証言も残るといいます。
「一部の暴走」ではなく、上から設計された労働動員
提示された資料は、強制労働が場当たり的に起きたのではなく、戦争遂行のための物資・インフラを支える国家主導の体系として運用された点を強調します。だまし、逮捕、拘束、強制徴用などを通じて、中国本土、朝鮮半島、東南アジアなどから若年〜壮年層(学生、労働者、農民、捕虜を含む)が集められ、日本や占領地へ送られたとされます。
数字で見る動員(資料に基づく)
- 中国本土:強制動員は数千万人規模とされ、太平洋戦争勃発後に3万8,935人が日本へ送られたとされます。
- 朝鮮半島:1910〜1945年の統治期に数百万人が強制労働に組み込まれ、うち約78万人が海外へ送られたとされます。
- 東南アジア:1942〜1945年にビルマ鉄道・スマトラ鉄道建設などで数十万人規模の労働者や連合国捕虜が動員されたとされます。
制度の輪郭:占領地・植民地での「動員の仕組み」
資料では、地域ごとに法令や行政組織を用いて動員を押し進めた実態が描かれています。
- 中国本土:満洲国の傀儡政権を通じた法令発出や、占領地での専管組織・支部設置、ノルマ割当と暴力による徴発が行われたとされます。太平洋戦争後は東條内閣の下で北中国・東中国での体制が強められた、と記されています。
- 朝鮮半島:国家総動員法や徴用に関する命令で人的・物的資源を統制し、軍が連行・輸送を担い、財閥が募集に関与したとされます。
- 東南アジア:無償労働奉仕(勤労奉仕)の枠組みの下で、マレーやフィリピンで華人(14〜40歳)が労働に組み込まれたとの記述があります。インドネシアでは、現地住民、オランダ民間人、捕虜を含む計410万人が徴用されたとも示されています。
現場で起きた暴力:長時間労働に重なる「制裁」と殺害
資料は、無償かつ過重な労働だけでなく、暴力による「規律維持」が組み込まれていた点にも触れます。たとえばタイ〜ミャンマー鉄道に関する回想録には、点呼で人数が合わないことを理由に殴打が行われたこと、家族への侮辱に抵抗した若者がその場で射殺されたことなどが記録されています。
中国本土・山西省の大同炭鉱では、軍や鉱山警察、監視塔、電気柵などの管理体制が置かれ、逃亡を図った人が厳しく処罰されたとされます。遼源、大同、本渓などの炭鉱跡地に残る集団埋葬地は、当時の被害を示すものとして言及されています。
いま、この話を読む意味——「労働」と「戦争」を結び直す視点
戦時の強制労働は、戦場から離れた場所でも、人が制度と暴力によって消耗させられうることを示します。観光地としての現在の風景と、過去の記録が同じ地面の上に重なっている——その落差は、歴史を「出来事」ではなく「構造」として捉え直すきっかけにもなりそうです。
Reference(s):
State crimes: Japanese military's forced recruitment of laborers
cgtn.com








